つづき
「ぽいん♪」
音は軽かった。子ども向けゲームの効果音のように無邪気で、空気を弾ませるようだった。だがそれが鳴るたびに、一人の男が社会から消える。年収七百万未満、清潔感スコア6.0以下。閾値を下回った者は、画面に赤い印がつき、「Poy」ボタンを押される。その瞬間、存在は履歴ごと剥ぎ取られ、誰も覚えていなくなる。
1. 誕生
アプリ「PoyPoy」が公開されたのは、都市に清潔感鏡が設置されてから三年後だった。最初は冗談のように広まった。「ダメ男ぽいぽ〜い」「低収入ぽいぽ〜い」――SNSでは軽いネタとして遊ばれた。だが行政が後押しした途端、それは冗談ではなくなった。
理由は明快だった。少子化対策。優秀で清潔感のある者同士を結びつけ、そうでない者を早期に排除する。劣等遺伝子の削除を正当化するような響きすら、メディアは「健全な再生産」と呼んだ。人々は拍手した。なぜなら、自分は「選ばれる側」だと信じていたからだ。
2. 判定の日常
僕は二十九歳。年収は六百八十七万。境界線を少し下回っている。清潔感スコアは「6.1」。わずかに安全圏にあるように見えるが、アプリのアルゴリズムは日ごとに細かく更新される。昨日の靴の汚れ、髭の濃さ、寝不足のクマ。すべてが点数に変換され、合計が閾値を割った瞬間、通知が鳴る。
「ぽいん♪」
街のどこかで誰かが消える。だが人々は驚かない。忘却がアプリに組み込まれているからだ。名前も記録も消され、空席は自然に補充される。
「今日も五十人がPoyされました」
ニュースの声は淡々としている。交通情報や天気予報と同じトーンで。
3. 遭遇
会社の同僚、森川が笑いながら言った。
「昨日さ、同期の安田、Poyされたんだって」
「……安田?」
僕の記憶にはその名前が薄く残っている。だが顔が思い出せない。机の並びも、声も、全部霞んでいる。
「清潔感がなかったからな。ネクタイもよれてたし。仕方ないよ」
森川は軽く言った。仕方ない。彼にとっては本当に「仕方ない」だけなのだ。
だが、胸の奥でざわめきが残った。僕のネクタイは、今、どう見えているだろうか。
4. 春乃ひかり
「あなた、もうすぐPoyされるよ」
ある晩、公園で声をかけてきたのは、春乃ひかりと名乗る女性だった。年齢は僕と同じくらい。清潔感スコアは「9.1」。光の輪郭を持つような人だった。
「どうしてそんなことを?」
「私は波形を聞けるの。Poyの音の揺らぎをね」
彼女はスマホを見せた。Poyの効果音を録音し、波形を分析している。「軽蔑のPoy」「ためらいのPoy」「恐怖のPoy」。彼女は音の種類を分類し、どんな意図で押されたのかを読み取ろうとしていた。
「あなたに近づいてるPoyは、迷いの混じった音。きっと誰かが、まだ押すのをためらってる」
5. 抹消の仕組み
ひかりは僕に仕組みを説明した。
「PoyPoyはただのアプリじゃない。国家の中枢に直結してる。住民票、銀行口座、SNS、検索履歴、全部同期されてる。Poyされた瞬間、あらゆるデータが初期化されるの」
「じゃあ、Poyされた人は?」
「存在しなくなる。誰も思い出せない。でも音だけは残る。波形には、消された人の痕跡が刻まれてる」
彼女の部屋は、録音データで埋まっていた。壁一面に音のグラフが貼られ、テーブルの上には古いラジカセ。
「私は消えた人の声を復元したい。波形から。これは亡霊の地図よ」
6. 恐怖と選択
日々の生活は、恐怖と隣り合わせになった。出社前に鏡で清潔感を測る。爪の長さ、口臭、髪の分け目。スコアが0.1上下するたびに心が削れる。職場では互いの目線が鋭くなる。
「お前、昨日のランチ、油っぽかったな」
「匂い、大丈夫か?」
冗談めかして言い合いながら、誰もが他人をPoy候補として見ていた。
僕のスマホに通知が届いた。〈あなたの年収が平均値を下回りました。改善が見られない場合、Poyの対象となります〉
指先が震えた。押すのは誰かの指かもしれない。だが、押されるのは僕だ。
7. 抵抗の兆し
ひかりは秘密の集会に僕を誘った。古い地下鉄の廃駅。壁にはスローガンが貼られている。
〈Poyを問え〉
〈消される前に名を呼べ〉
彼らは「残響派」と名乗っていた。Poyの音を録音し、消された人の存在を復元する試みを続けていた。成功例はまだない。だが、波形の中にかすかな声の震えを見つけると、人々は涙を流した。
「私たちは、消された者を思い出すことから始める」
ひかりの目は真剣だった。
8. 崩壊の前夜
政府は新しい機能を導入した。「社会整合性指数」。これは収入や清潔感だけでなく、「Poyの一貫性」を測る。ためらう者は危険、揺らぐ者はコスト。
つまり、押す指に迷いがあるだけで、Poy対象になるのだ。
ニュースは淡々と報じた。〈今後、ためらいは認められません〉
街の音は変わった。Poyは速く、冷たくなった。ぽいん♪、ぽいん♪。迷いは削除され、笑い声だけが残る。
9. 最後の問い
僕はスマホを開いた。通知が点滅している。〈あなたは次の更新でPoy対象となります〉
背中を冷や汗が流れる。押される前に、自分で何かを残さなければならない。
ひかりが録音機を差し出した。
「迷って。音にして。あなたの迷いは、きっと誰かを守る」
僕は深呼吸して、録音ボタンを押した。指を落とす前の一秒。ためらいが波形に刻まれる。押す。ぽいん♪。
だが、その音は少しだけ違っていた。軽やかさの中に、呼気と心拍が混じっていた。
10. 終わりと始まり
翌朝、僕のプロフィールは消えていた。名前も記録もなく、同僚は僕を覚えていなかった。森川は空いた席を見て「誰だっけ?」と首をかしげた。
だが、ひかりの部屋では、僕の音が再生されていた。波形は震え、空白の中に微かな声を潜ませていた。
〈問うこと。押す前に。押したあとに〉
彼女はその音を繰り返し再生し、微笑んだ。PoyPoyは人を消す。だが、問いは消せない。問いは残響になり、波形を通じて別の誰かに届く。
やがて街角に、小さな付箋が貼られはじめた。〈ぽいんの前に聞け。誰のため?〉
人々は剥がしても剥がしても、また誰かが貼った。音は変わる。問いは続く。
世界はまだPoyPoyに支配されている。だが、僕の音は、もう消えない。