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売り手市場ホイホイ物語

その市場は「売り手市場」と呼ばれていた。名前の由来を知る者はいなかった。だが、人は誰もがそれを繁栄の印と信じて疑わなかった。大通りに並ぶ看板には「人材求む」「未来は君のもの」「選びたい放題」といった言葉が踊り、群衆はその言葉を口移しに繰り返した。市場に足を踏み入れた者は、自分が選ばれる側だと信じていた。しかし、選ぶのは常に市場の方だった。
入口には奇妙な装置が並んでいた。金属の枠に透明な仕切りが張られ、内側は淡く光っている。人々はそれを「ホイホイ」と呼んでいた。誰が最初にそう名付けたのかは知られていない。だが呼び名は瞬く間に広がり、誰もがそれを当然のように口にした。「ホイホイに入れば未来が開ける」「ホイホイを通らねば市場には立てない」──そんな言説が溢れ、群衆は吸い寄せられるようにそこへ入っていった。
私は毎朝、その市場を眺めていた。眩しい光と笑顔の群れ、鳴り響く音楽、紙吹雪のように舞うチラシ。だが、その華やかさの奥に沈黙が潜んでいることを、私は知っていた。ホイホイに吸い込まれた人間が再び姿を現したことは、一度としてなかったからだ。
I. 群衆の笑い
市場には笑い声が絶えなかった。就職を祝う者、転職を誇る者、条件を自慢する者。彼らの言葉は互いに似通っていた。
「私は選ばれた」
「未来が保証された」
「売り手市場は私たちの味方だ」
私は彼らの笑いを遠くから聞いていた。羨望はなかった。むしろ、それが一種の強迫に似ていることを感じていた。笑うことが義務であり、未来を信じるふりをすることが、この市場に立つための通行証なのだ。笑わぬ者は排除され、疑う者は孤独に追いやられた。
時折、ホイホイに入る前に立ち止まる者がいた。彼らは何かを問いかけようとする。しかし群衆の視線は冷ややかで、問いはすぐに掻き消される。やがて彼らも笑いを浮かべ、装置の中へ消えていった。
II. ホイホイの構造
ある日、私は一人の老人に出会った。彼は市場の外れに立ち、ホイホイを眺めていた。
「中はどうなっているのですか」と私は問うた。
老人は肩をすくめた。「誰も知らん。入った者は戻らんからな」
「それでも皆、喜んで入っていきます」
「喜びではない。習慣だ。光を見れば虫が飛び込むようにな」
私は老人と並んでしばらく沈黙した。装置の光は昼夜を問わず輝いていた。青白く、冷たく、だがどこか安堵を誘う色だった。人はその光に身を任せることで、自分の決断の重さから逃れられるのかもしれなかった。
III. 不条理の気配
私は次第に、ホイホイに抗うことが不自然に思えてきた。誰もが同じ方向を向き、同じ言葉を口にし、同じ笑い声を上げている。その中で立ち止まることは、砂漠に一人取り残されるような孤独を意味していた。
「市場の外に生きることは可能か」
その問いを抱いた瞬間、私は笑いの輪から切り離された。友人たちは市場に消え、知人たちは未来を語るうちに遠ざかっていった。残された私は、光を浴びながらも、その光の意味を見出せずにいた。
ある夜、私は夢を見た。ホイホイの奥には巨大な迷宮が広がり、人々は果てしなく歩き続けていた。誰も出口を探そうとせず、ただ歩くこと自体を成功と呼んでいた。目覚めたとき、夢と現実の境界は曖昧になっていた。市場とはすでに迷宮そのものではないか、と。
IV. 招待
ある日、私は市場の中央で呼び止められた。若い営業員のような男が微笑みながら近づいてきた。
「おめでとうございます。あなたには特別なホイホイをご用意しました」
「特別な?」
「はい。条件も待遇も、この上なく有利です。あなたは市場にふさわしい」
私はしばらく彼を見つめた。言葉は滑らかで、疑いの余地を与えなかった。彼の笑顔の裏に空虚が透けて見えたが、その空虚こそが人々を惹きつける力を持っていた。
「もし断ったら?」と私は問うた。
男は少しだけ首をかしげ、答えた。
「断る理由があるのですか?」
その問いは私を深く突き刺した。理由──私にはなかった。ただ意味を求めて立ち止まっているだけだった。だが、意味などどこにも存在しないのかもしれなかった。
V. 境界に立つ者
私は装置の前に立った。光は強く、肌を焼くようだった。群衆は歓声を上げ、私を祝福しているように見えた。だがその眼差しは、私が彼らの仲間になることを要求しているだけだった。
踏み出せば、私も笑いの輪に加わるだろう。立ち止まれば、私は永遠に孤独の外側に取り残される。どちらを選んでも、不条理は変わらない。
私はふと、老人の言葉を思い出した。「光を見れば虫が飛び込むようにな」──人間もまた虫と変わらないのだろうか。自由を求めながら、習慣と幻影に従うだけの存在なのだろうか。
VI. 終わりなき始まり
その日、私は一歩を踏み出した。装置の中に入ったのか、外に残ったのか、自分でも分からなかった。光が全てを塗りつぶし、群衆の声が遠ざかっていった。
市場は今も続いている。笑い声は絶えず、ホイホイは新たな人々を飲み込み続けている。出口を知る者はいない。だが人々はそれを祝福と呼ぶ。
私は今も境界に立っている。ホイホイの内か外かは定かでない。ただ一つ確かなのは、市場に生きるということ自体がホイホイなのだということだ。
結語
「売り手市場」とは祝福であると同時に罠であった。
「ホイホイ」とは光であると同時に空虚であった。
人は笑いながら罠に入り、沈黙しながら自由を失った。
だが、その不条理を理解したところで、人はなお歩みを止めない。未来を信じるふりをし、選ばれる幻想にすがり、光の中に身を投じる。市場は今日も輝いている。
そして私は、その光の意味を問い続ける。答えのない問いを抱えながら。




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