
参考記事
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答え:数行で人となりを表現する場において、事実を並べるだけでは自分の魅力が伝わらず、必然的に「物語化」せざるを得ないから
なぜ婚活を始めると、あの数百文字のプロフィール欄が、妙に小説めいてしまうのだろうか。ほんの数行で、これまでの人生、性格、価値観、趣味嗜好、未来への期待を詰め込まなければならない。箇条書きで淡々と書けばよいはずなのに、気づけば「幼い頃から本が好きで…」などと始まり、大学時代に打ち込んだことを語り、現在の生活リズムや友人からの評価を差し挟み、最後には「これからは温かい家庭を築きたい」と結ばれる。これはもはや履歴書ではなく、短編小説である。
その背景には、婚活の舞台が「市場」であることが関係している。市場では商品が並び、比較され、評価される。だが人間は商品ではない。ただ「年齢・年収・身長・趣味」などのスペックだけでは、機械的なフィルタリングに埋もれてしまう。だからこそプロフィールは「物語」を必要とする。数字や肩書の裏にあるストーリーを提示することで、相手の注意を引き、心を動かす。物語化しなければ、数あるプロフィールの海の中で溺れてしまう。
だがその物語化には危うさが潜んでいる。小説にするということは、編集し、選び、装飾するということだ。現実の自分は断片的で矛盾に満ちている。休日は読書する一方で、だらだら動画も見てしまう。人に優しいつもりでも、疲れるとつい冷たくあたってしまう。けれどプロフィールにはそうした矛盾は書き込めない。小説としてのプロフィールは、都合よく切り取られ、整えられた「人物像」として構築される。つまりプロフィールは「私の小説」であると同時に「私の虚構」でもある。
虚構だからこそ、そこには文学的な嘘と真実が交錯する。小説が事実をそのまま記録するのではなく、選び取られた事実を並べ、意味づけし、秩序を与えるように、婚活プロフィールもまた、人生を編集し、ひとつの「読みやすい形」に仕立てる。読む人に伝わることを最優先にした言葉の並び。それは実際の自分とズレを生じさせる。だが同時に、そのズレこそが「魅力」を生むのも事実だ。人は単なるスペック表に心を動かされはしない。物語を読んだとき、そこに「この人に会ってみたい」と思わせる余白が生まれる。
しかし、この「プロフィール=小説化」には二重の負担がある。一つは、常に「自分を物語る」ことの疲れだ。小説を書くのはエネルギーがいる。普段の生活で自分の人生を逐一物語化している人は少ない。だが婚活では強制的にそれをやらされる。プロフィールを書き、メッセージを送り合うたびに「物語の続きを書く」作業を強いられる。それはまるで、日常生活が「永遠に締め切りの迫る連載小説」になったかのようだ。
もう一つの負担は、現実とのギャップだ。小説として美しくまとまったプロフィールは、現実の自分を追い越してしまう。「本好きで落ち着いた人」と書いた以上、読書家であることを演じ続けなければならない。「料理が好き」と書けば、疲れてコンビニ弁当を選ぶ自分に罪悪感を抱く。プロフィールが虚構であるがゆえに、現実の自分がその虚構を裏切る瞬間、苦しみが生まれる。こうして婚活は、恋愛の場であると同時に「虚構の自己に縛られる場」ともなるのだ。
だが、プロフィールが小説になることを嘆く必要はない。むしろ小説だからこそ、真実に届くこともある。文学の力は、必ずしも事実を忠実に再現することにあるのではなく、事実を超えて「意味」を掴み取るところにある。婚活プロフィールに書かれる「家族を大切にしたい」「お互いを尊重し合える関係を築きたい」という言葉は、ありきたりに見えても、その人が自分の人生を物語化する中で最終的に残した「核」だ。それは事実でなくとも、真実でありうる。
むしろ問題は、プロフィールを「一つの完結した小説」にしてしまうことかもしれない。本来、人間は未完の存在であり、物語の途中にある。プロフィールもまた、未完の断章であってよいのだ。「今はまだ途中ですが、一緒に続きを書いていきませんか?」という余白を残すこと。それが、虚構と現実を架橋する唯一の方法だろう。
つまり、婚活するとプロフィールが小説になるのは避けられない。しかしその小説を「完成品」として提出するのではなく、「未完の原稿」として差し出すことが大切なのだ。完成した物語を演じ続けるのは苦しい。だが未完の物語を共有するなら、そのズレや矛盾さえも一緒に引き受けられる。
結局のところ、人間同士の出会いとは、お互いの「未完の小説」が交わり合う場なのではないか。プロフィールは序章にすぎず、そこから先は共に書き継がれていく。
最後に・・・
では、あなたにとって「未完のプロフィール」とはどのような一文だろうか?