参考記事
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答え:休むこと自体が制度化された社会の中で「特別な行為」とされ、休みを正当化するための準備や後始末が、かえって新しい仕事を生むから
なぜ人は「休もう」と決めた瞬間から忙しさに追われるのだろうか。本来、休むことは心身を解放するための行為のはずだ。仕事や家事、社会的義務から一時的に距離を取り、ただのんびり過ごす。それだけのことなのに、実際には休む予定を入れた途端、周囲の予定調整や事前準備、後片付けに追われてしまう。休みが休みでなくなるこの逆説は、日常生活のごく身近な場面で繰り返し現れる。
たとえば旅行を思い浮かべてほしい。休暇を取って旅行に出かけるのは、休みの典型的なイメージだ。ところが、出発前には荷物を詰め、宿を予約し、交通手段を確保しなければならない。職場に迷惑をかけないように前倒しで仕事を片づけ、帰宅後には洗濯や整理に追われる。結局、旅行前と旅行後の二倍の忙しさが押し寄せ、休みのために余計な負担を抱え込むことになる。これでは休みが「余暇」ではなく「タスク」に変わってしまう。
この現象の根底には、現代社会における「休むことの制度化」がある。イヴァン・イリイチが批判したように、近代社会はあらゆる営みを制度に回収する。教育は学校に、医療は病院に、幸福は消費に。休暇もまた制度の中に組み込まれ、「決められた形」で休むことが当然とされる。夏季休暇やゴールデンウィーク、有給休暇というラベルが貼られた休みは、制度的に「ここで休め」と命じられている。だが制度化された休みは、すでに自由な休みではない。制度に合わせて調整し、枠の中で消費する休みは、結局「やらねばならぬ行為」となり、私たちを忙しくさせる。
さらに、休みはしばしば「自己正当化」を伴う。社会が生産性を最優先する中で、休むことは「怠け」や「不真面目」と誤解されやすい。だから人は「これだけ頑張ったのだから休む権利がある」と自分や他人に言い訳をする。その正当化のために過剰な努力をし、休む前に仕事を詰め込み、休み中も「迷惑をかけていないか」と気に病む。正当化が必要な休みは、休みではなく義務の延長だ。息を抜くために休むのに、その前提として全力疾走を強いられているのだから、かえって疲弊が深まる。
「休むことの忙しさ」はまた、タレブ的な「脆弱性」とも関係している。タレブは、安定を追い求めるほどシステムが脆弱になると論じた。現代人が「計画的な休み」を求めるのは、休む時間を完全にコントロールしようとするからだ。だが休みを完全に計画すればするほど、その計画に縛られ、不測の事態に弱くなる。旅行中に天気が崩れれば予定は狂い、計画通りに観光地を回れなければストレスになる。本来の目的は休むことだったのに、計画が崩れた瞬間、休みは不満に変わる。休みを制度化し、形式化するほど、休みは脆弱になるのだ。
加えて、休みは社会的な「期待」の網にからめ取られている。休日には「家族サービスをしなければならない」「趣味を充実させなければならない」といった無言の圧力がある。休暇が「何をするか」で評価されると、休みは成果を求められる活動に変質する。家族を連れて出かければ、移動や支度に追われ、趣味を楽しもうとすれば予定を詰め込み、達成感と同時に疲労が残る。休みが「成果主義」に回収されると、そこには休息の余地はない。
本来、休みとは「何もしない自由」を意味するはずだ。しかし現代社会では「休みを有意義に過ごすこと」が正しいとされる。だからこそ「だらだらと過ごした休日」には罪悪感が付きまとう。正しい休みを求めれば求めるほど、休みは自己評価の場に変わり、息苦しさを生む。ここにも「正しさが暴力に転じる」逆説がある。
この状況は、制度批判的に言えば「休むことの植民地化」とでも呼べるかもしれない。資本主義は労働力を再生産するために休暇を必要とする。だから企業は従業員に休暇を与えるが、その休暇は労働のために設計されている。働くために休む。休むために働く。この循環の中で、休みは本来の自由を失い、労働の一部に取り込まれる。だから休もうとすると忙しくなるのだ。私たちは自由に休んでいるのではなく、労働の制度を維持するために休みを演じているにすぎない。
だが、人間の身体と心は制度に先立つ存在である。身体は「疲れたら休む」という単純なリズムで動いている。動物に休日はない。眠り、食べ、飽きたら休む。そこに予定や正当化は不要だ。本来の休みとは、制度に組み込まれる前の、自然なリズムへの回帰である。忙しさを生むのは、休みを制度や計画に回収するからであって、休みそのものに問題があるわけではない。
では、どうすれば休もうとすると忙しくなる罠から抜け出せるのか。その鍵は「非計画」と「小休止」にある。大きな休暇を目標にせず、日常の中で小さな休みを織り込む。歩きながら立ち止まるように、仕事の合間にぼんやりするように。制度に管理されない休みは、正当化も準備も必要ない。タレブが言うように、不確実性や偶然を受け入れる余地を持つことこそが、反脆弱な休みを可能にする。
結局、「休もうとすると忙しくなる」のは、私たちが休みを制度や計画に委ね、休むことを正当化しようとするからだ。休みは特別な行為ではなく、生のリズムに内在する当たり前の呼吸のようなものだと気づくとき、ようやく休みは休みとして回復する。
最後に・・・
では、あなたにとって「休みを正当化しない休み」とはどのような時間だろうか?