イワシは、もともと典型的な三日坊主だった。
ジョギングを始めても三日で膝が痛いと言ってやめる。
読書を始めても三日でブックオフに積んだ。
ダイエットも三日で「今日はご褒美」と言ってケーキを食べた。
そんなある日、駅前でチラシを配る男に出会う。
「人生を変えたいですか?」
男はまっすぐにイワシを見つめ、まるで彼の三日坊主の履歴をすべて知っているかのように言った。
「習慣化セミナー、初回無料です」
無料。
その言葉に弱いイワシは、思わず足を止めてしまった。
そして気づけば申込書に名前を書いていた。
初めてのセミナー会場は、明るい照明と元気なBGMに包まれていた。
「習慣はあなたを自由にする!」
講師が高らかに宣言すると、周囲の参加者たちは熱心にうなずいた。
イワシも思った。
「これなら僕も変われるかもしれない」
このとき、彼はまだ知らなかった。
変わるのは人生ではなく、受講そのものが習慣になることを。
それからというもの、イワシは毎週のようにセミナーに通った。
朝5時に起きる習慣をつけろ、と講師は言った。
しかし、イワシが朝5時に起きたのはセミナー当日だけだった。
「筋トレを続けろ!」と熱弁された翌週。
イワシの筋肉痛は三日で消えたが、筋トレは続かなかった。
「瞑想を取り入れろ!」と言われた翌々週。
イワシは三日だけ静かに座ったが、四日目にはスマホゲームをしていた。
だが、不思議なことにセミナーだけは必ず行った。
駅前から電車に乗り、講師の熱弁を聞き、
「今日からやります!」と宣言する。
宣言するだけで、やらない。
イワシはやがて気づく。
自分が「唯一続けている習慣」は、セミナーの受講そのものだということに。
イワシは講師の勧めで「習慣カレンダー」を買った。
毎日続けたら赤い丸をつけ、途切れさせないようにするのだ。
カレンダーの「早起き」の欄は真っ白だった。
「筋トレ」の欄も真っ白だった。
「読書」の欄は、買った本の背表紙を眺めた日だけ赤丸がついた。
だが「受講」の欄だけは、完璧に埋まっていた。
週に一度、必ず真っ赤な丸が並ぶ。
イワシは誇らしげにそれを眺め、思わずつぶやいた。
「俺、続けられてるじゃないか……」
彼は知らなかった。
それを「習慣」ではなく「依存」と呼ぶことを。
ある日、講師がイワシに言った。
「あなたは素晴らしい。次は上級コースに進みましょう」
上級コースは20万円だった。
イワシはためらった。だが講師は微笑んで言った。
「ここまで続けられたあなたは特別です」
その言葉に酔いしれ、イワシはカードを切った。
そして「上級受講生」として新しい名札を首にかけた。
そこではさらに過激な習慣が推奨された。
「毎日5時に起きて、100回スクワットして、1時間瞑想して、3冊本を読め!」
イワシはノートに必死で書き留めた。
だが、翌朝は10時に起き、朝ごはんを食べて二度寝した。
習慣は一つも身につかなかったが、イワシは20万円を払う習慣を身につけていた。
セミナーにはLINEグループがあった。
毎日、仲間が「今日も早起きできました!」「筋トレ30回達成!」と報告しあっていた。
イワシは焦った。
やっていない自分がバレるのではないか。
そこで彼はこう書き込んだ。
「今日もセミナーに申し込みました!」
仲間たちは「すごい!」「やる気ある!」と称賛した。
イワシは安心し、次のセミナーの受講料を振り込んだ。
彼にとって報告とは、行動ではなく入金証明になっていった。
受講100回目の記念セミナー。
壇上に呼ばれたイワシはスポットライトを浴びた。
「彼は受講を習慣化した達人です!」
講師の言葉に、会場は拍手喝采。
イワシは涙を流した。
「ようやく、俺は習慣の達人になれたんだ……」
だが観客の一人が小声でつぶやいた。
「でも、あの人、受講以外は何もしてないんだよな」
もちろんイワシには聞こえなかった。
彼の耳には、割れんばかりの拍手と講師の笑顔しか入らなかった。
エピローグ 習慣の墓場
月日が流れた。
イワシの通帳はすっかり痩せ細り、残ったのは領収書の束だけだった。
壁には「修了証書」が何枚も貼られている。
だが、それは額縁入りの請求書にしか見えなかった。
イワシはそれでも次のセミナーに申し込む。
「今度こそ本当の習慣が身につくはずだ」
そう信じながら。
しかし、すでに彼は習慣の墓場に足を踏み入れていた。
習慣を学ぶために始めた受講が、習慣そのものになってしまったのだ。
イワシはもう三日坊主ではない。
永遠に受講し続ける坊主になった。