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形式にならない誠意



――沈黙の倫理とSNSのエチケット

誠意とは、沈黙に棲む形式未満の祈りである。

執行草舟が語る「沈黙に支えられたSNS」という言葉を、私は初めて聞いたとき、なぜかウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という命題が頭に浮かんだ。

 

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SNSは語りの場だ。ツイート、いいね、既読スルー、ストーリーの既視感。すべてが即時的に反応を求め、形式化されたふるまいを押しつける。そこには、「誠意ある対応を」などという道徳が顔を出す。しかし、私は問いたい――誠意とは、対応の形式によって測れるのだろうか。

沈黙の倫理、または応答しない勇気

マックス・ピカートは『沈黙の世界』で、こう述べている。

「沈黙とは、言葉が出てくる以前に人間の中にある全体性である。」

この「全体性」は、分節化される前の、まだ言葉にならない感受性だ。私たちはときに、何も返せない。ただその人の投稿に触れて、沈黙する。だがその沈黙は、「無視」ではなく、「沈潜」である。語れないほどの共鳴。それは、形式にならない誠意である。

形式とは、他者との接続装置である

制度は形式を求める。メールの返信、ハートのリアクション、年賀状のひとこと。それが「誠意」だということになっている。しかし、誠意とは本来、制度に先立つ感受の動きなのではないか。
形式によって示せるのは「誠意の演出」であり、誠意そのものではない。誠意とは、自分でもどう応答すべきかわからずに沈黙するその時間のなかに潜んでいる。

読書とは、返信を求められないSNSである

私は読書が好きだ。そこでは、誰も「感想をくれ」とは言わない。誰かの声を読み、その沈黙に黙って応じる。
「読書日記アプローチ」とは、その沈黙の中で動く誠意の記録なのかもしれない。

SNSにも、そうした空間がありうるだろうか? 反応しないことを誠意として受け取る文化。沈黙を「無」と見なさず、「言葉にならない厚み」として受け取る感性。それが「よいSNS」の前提だと、執行草舟は言う。

「見ています」と言わずに、見守る

「いいね」や「既読」ではないかたちで、「あなたの言葉に触れています」と伝えることはできるだろうか。それは、もしかすると言語でもデザインでもなく、「生き方」の問題なのかもしれない。

誠意は返品できない。
沈黙のなかでしか受け取れないからだ。

 




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