いらっしゃい、いらっしゃい。読書、1000円ですよ〜!
考える権利は200円、悩む時間は500円、絶望は無料でついてきます!
その声が、書店ではない、マーケットでもない、存在しない露店から聞こえてくる。ぼくはその声に惹かれて、振り返る。
そこにいたのは、やせ細った男だった。
ボサボサの長髪に、カールした眉。片手には壊れた懐中時計、もう片手には「意志と表象としての世界」と書かれたレプリカ本。表紙だけで中身は白紙だ。
「読書を売ってるんですか?」
ぼくが問うと、男は得意げに笑った。
「いや。読書の可能性を売ってるんだよ。読むか読まないかは、きみの意志次第だ。だがその意志すらも、きみが選んだわけではない。さあ、買ってごらん?」
「それじゃ、意味がないじゃないですか。」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。だが、それを判断する自由すら、本当に君のものかね?」
その男――名をショーペンハウアーと名乗った――は、矛盾を語ることに一切の矛盾を感じていない様子だった。
「この本は白紙です。」
「そう。内容は読者の中にしかないからね。私が売っているのは、きみ自身の読解だ。」
「でも僕はまだ読んでない。」
「ならば、買ってみればいい。読む権利がついてくる。」
僕はポケットから千円を取り出す。だが、その千円はどこか薄っぺらい。もしかするとこれは、貨幣の形をした「決断」かもしれない。
「ありがとう。これで、君の中に読書が芽生える。」
「でも、中身は白紙なんでしょう?」
「きみがそう思えばそうだし、そうでなければそうでもない。君が読むという行為を通して初めて、世界は表象される。私はただ、君に“読むかもしれない世界”を売っただけだ。」
僕は本を開く。
白紙だった。
だがその瞬間、僕の頭の中で、見たことのない言葉たちがざわめき始めた。
喜んで。
それでは、矛盾構造とパラドックスをさらに深めて、
読者の「認識の足場」が崩れるような短編へと広げていきます。
以下は、『読書、売ります。』の続編(第二章)です。
今度は時間、自由、知識、そして「存在の可否」そのものが揺らぎ始めます。
「読むことはできないが、読んだことはある。」
ショーペンハウアーは、そう言って本の余白に何かを書き始めた。鉛筆は紙に触れていないが、音だけが聞こえる。紙が擦れる音。だが、視界には何もない。
「今、何を書いてるんですか?」
「君が読んでいる内容だ。」
「……まだ読んでません。」
「そう。だが君の中には、読むという行為が起こる可能性がある。私はその可能性を書いているのだよ。」
ぼくは混乱してきた。
いや、もしかすると、この混乱すらも「彼が売っている読書」に含まれているのではないか。つまり、僕は理解できないことの理解を買ってしまったのかもしれない。
ショーペンハウアーは、白紙の本を閉じ、静かに言った。
「考えてみたまえ。読むという行為は、読んでいる間は終わらない。だが読み終えた瞬間、それは過去となり、もはや読むことはできない。よって、読むとは、読む前と読んだ後にしか存在しない。読書中という瞬間は、観察不可能なのだよ。」
「じゃあ、読書は不可能ですか?」
「だからこそ売れるんだ。不可能だからこそ、価値がある。不可能は商品化に向いている。」
ショーペンハウアーは、次に「時計のない時計屋」を指差した。
そこにはこう書かれていた。
“未来:300円(推定)
過去:1000円(確定)
現在:お取り扱いしておりません”
「ここでは時間も売ってるんですか?」
「もちろんだ。だが現在は売れない。なぜなら、君が“買った”と思ったその瞬間には、それは既に“過去”になってしまう。」
ぼくはもう、わけがわからなかった。
ショーペンハウアーは、満足そうに言った。
「わからないだろう。だが、“わからない”という認識が君に生まれた瞬間、私は“理解を売ること”にも成功したのだ。」
「では、もし僕があなたを信じないとしたら?」
「それも一つの購入だ。」
「あなたが本当は存在していなかったら?」
「その疑念を持った瞬間、私は君の中で“存在する”ことになる。」
「……じゃあ、信じないって言ってるのに?」
「信じない、という行為が、すでに対象を必要としている。君は私という矛盾に依存して初めて、自由を語れるんだよ。」
「自由ですら……売り物?」
「もちろん。“自由になれない自由”は、よく売れる。皆、それを買いたがる。なぜなら“選ばされた選択肢”こそが、もっともリアルに感じられるからね。」
再び、あの声がどこかから聞こえた。
「いらっしゃい、いらっしゃい。読書1000円ですよ〜!
思考500円、認識のズレ300円、意味不明さは無料でついてきます!」
ぼくは白紙の本を抱えたまま、誰もいない露店の前に立っていた。
ショーペンハウアーはもういなかった。
だが彼の声は、僕の頭の中で、いまだに響いている。
「読書は売れた。
次は、読むこと自体を売る番だ。」
ありがとうございます、それでは続編:「読まなかった読者」 をお届けします。
あるところに、読まないことを選んだ読者がいた。
彼は決してページを開かず、文字を追わず、物語に触れることをしなかった。
理由は単純だ。
「読むという行為には、作者の意図が潜んでいる。
そして意図に乗ることは、思考の敗北だ。
私は読むことを拒否することで、思考の自由を守る。」
そう彼は語っていた。
彼の部屋には、本があった。
ただし全て逆さに積まれ、ページ同士が互いに閉じ合っている。
何も出てこないように。
そして何も入らないように。
だがある日、彼の目にふと留まった。
『読書、売ります。』
というタイトルの、一冊の白紙の本。
「……白紙か。ならば読書ではないな。」
と、彼は安心してその本を棚に入れた。
その夜から、奇妙な夢を見始めた。
夢の中で、本が語りかけてくる。
「あなたが読まなかったことで、私の中で言葉が生まれた。
なぜなら“読まない”という意志こそが、最初の読解だから。」
読まない読者は叫んだ。
「私は何も読んでいない!だから、言葉など知るはずがない!」
「では、その否定はどこから生まれた?
君が“読まない”と認識した瞬間、君はすでに“読むとは何か”を読んでいた。」
夢の中、本がゆっくり開かれる。
そこに書かれていたのは――
「この文を読まなかった者にこそ、読まれる。」
読まない読者は、目を覚ました。汗びっしょりだ。
だが確かに、ページには何も書かれていなかった。
その翌晩、彼は夢の中で本の中にいた。
本の中は白く、静かで、無音だった。
だが彼はその空白の空間で、誰かの声を聞いた。
「読まなかったあなたの存在によって、この章は成立しました。
あなたが読まない限り、この章は終わらない。」
「私は存在しない章に取り込まれているのか?」
「そう。あなたが拒んだ世界の中に。」
彼は夢の中で本に尋ねる。
「では、読まれなかった本とは何だ?」
本は答えた。
「読まれなかった本は、読者の否定によって成立する。
君が読むことを拒否した瞬間、君は私の最も忠実な読者となった。」
「それは矛盾だ!」
「矛盾こそが、この物語の読解だ。
矛盾を抱えた君の否定は、最も純粋な受容に等しい。」
最後の夢で彼は、書斎にいた。
机にはペンと白紙のノート。
「書いてください。」
そう、誰かがささやいた。
「私は読者だ。書き手ではない。」
「読まない者こそが、まだ書いていない作者だ。」
彼はペンを手に取った。
一文字も書けなかった。
だが朝起きると、彼の本棚に一冊の本が加わっていた。