靴音が、あらゆる方向から押し寄せていた。
ザッ、ザッ、ザザッザッ——まるで何かが崩れる音のように。
ショーペンハウアーは走る。麺をすすりながら。
ざるの中の蕎麦が風を受け、乾いてゆく。つゆは腕を伝い、足元に滴り落ちていた。
背後から、叫び声と笑い声が混ざったような、耳障りで慈悲深い音が迫ってくる。
数えきれない数のおばあさんたちが、彼を追っていた。
見れば見るほど増えている気がする。
いや、そもそも数えようとしたこと自体が間違いだったのかもしれない。
「アルトゥール、お茶の時間はまだよ〜!」
「立ち止まって、よく噛んで食べなさい!」
「走りながら食べると、おなか壊すわよ〜〜〜!!」
そのすべてが正しく、すべてが地獄のように響いてくる。
呼吸が乱れ、喉の奥にざる麺が絡まる。
足を止めれば追いつかれる。
足を止めなければ、味がわからない。
そんなときだった。
すぐ横に、ぬるりと並ぶように一人の老婆が現れた。彼女も走っている。だが、完璧なフォームで。
「……なぜだ。なぜこんなに……追ってくる……?」
老婆は微笑んだ。穏やかで、どこか痛みを含んだ笑みだった。
「あなたが逃げているからよ、アルトゥール」
「逃げてなどいない。私はただ……味わおうとしているだけだ。意志の外側で、ただ静かに」
「じゃあ、立ち止まって食べてみなさい」
彼は何も言えなかった。麺を噛み切る音だけが耳の中で大きく響いた。
「数なんてね、どうでもいいの。ただ……あなた自身が“問い”を増やしているだけなのよ」
「問い……?」
「走れば走るほど、問いは増える。追う私たちは、その問いの影。
でもね——あなたが止まれば、私たちは消えるわ」
「……それでも、私は走る。味わうために。逃げるためじゃない。これは、選択なんだ」
老婆はひとつ、静かにうなずいた。
「なら、せめて……味わって、走ってね」
そして彼女は再び群れに溶けた。
無数の足音と声が、風に乗って彼を包み込む。
ショーペンハウアーは、再び速度を上げた。
ざるを持つ手に力を込めながら、ただ前を見据えて。
風向きが変わった。
それは、突然だった。
麺を啜る音、息づかい、つゆの香り。すべてが急に——重くなった気がした。
背後から聞こえていたあの声たち。
「おなか壊すわよ〜!」
「噛みなさい、よく噛みなさい!」
……聞こえない。
代わりに、ただ靴音だけが鳴っていた。無数の、数えきれない、しかし完璧に揃った足音。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。まるで一つの巨大な意志が歩いてくるような気配だった。
ショーペンハウアーは走るスピードを落とした。
麺ののどごしが、途端に意味を持たなくなっていた。
“味”が、消えていた。
彼は振り返る。
そこにいたのは、もはや「おばあさんたち」ではなかった。
同じ服、同じ顔、同じ動き。完全に均質な存在たち。
目が合わない。顔がのっぺりしていて、口すら見えない。
「……なぜ、変わった?」
誰も答えない。だが、歩調だけが完璧にそろって近づいてくる。
「問いか……私の問いが、変質したのか」
彼は、自らに問い返す。
「私は“味わいたい”と思っていた。それが逃避ではなく、生の肯定であると信じていた」
麺を一筋、すすってみる。
味がしない。食感がない。空気のように口の中から消えた。
「……問いが“答え”を求めはじめたとき、問いは、顔を失うのか?」
無言の群れが、じわじわと距離を詰めてくる。
気づけば、すぐ後ろにいる。音もなく、だが確実に迫ってくる。
「私はまだ——問いたいのか? 味わいたいのか?」
麺が、一本、風に溶けた。
そしてその時、彼の左手が軽くなった。ざるから麺が、あと少ししか残っていなかった。
“残りわずか”——その言葉が、彼の背筋を冷たく撫でた。
走っているはずだった。
しかし、足音がしない。風も吹かない。つゆの香りも、消えていた。
ショーペンハウアーは自分が、どこを走っているのか、わからなかった。
地面がなかった。代わりに、言葉が敷き詰められていた。
彼が踏むたびに、「意志」「苦」「否定」「生」——そういった活字がパキパキと砕けていく。
背後の気配も、ない。
いや、それすらも曖昧だった。
「背後」とは何か? 「方向」という概念は、いま彼の周囲には存在していない。
「ここは……どこだ?」
誰も答えない。だが、声がした。彼自身の声だった。
「ここは“問いの外側”だよ、アルトゥール」
彼は思考する。“問いの外側”とは何だ?
答えがないということか? いや、問いすら存在しない領域ということか。
気づくと、彼の手のざるが消えていた。
麺も、つゆも、箸も、なかった。だが、口の中には味が残っている。
海苔の香り、そば粉の苦み、つゆの深い輪郭。それらは明確に感じられた。
「……味わっている?」
そう、立ち止まっていた。
走ってもいなければ、止まってもいない。
彼は、ただそこに“在った”。
そのとき、足元から一人の老婆が現れた。
土から生えるように、言葉の大地からにゅっと上半身だけを突き出す。
「久しぶりね、アルトゥール」
「君は……最初に私を追いかけた、おばあさんか?」
「ええ。でも今は“誰でもないわ”。あの時の“問い”の形が、たまたま私だっただけ」
彼は静かにうなずく。質問はしない。ただ、味の記憶を噛みしめるように。
「麺は、もうないのね」
「ないのに、味が残っている」
老婆は微笑む。「それが“問わずに残ったもの”。それが、あなたの味覚の真実よ」
「つまり……味とは、意志の残骸か?」
老婆は黙ってうなずくと、すっと消えた。土も言葉も消えて、世界が滑らかに白くなる。
目を閉じれば、自分が走っていたことも、逃げていたことも、遠い夢のように思えた。
公園の音が戻っていた。
鳥のさえずり、子供の笑い声、自転車のブレーキ音、犬の足音。
だが、それらは彼を通り抜けるだけだった。
誰も彼に声をかけない。
誰も、彼を見ない。
ショーペンハウアーは、立っていた。
ベンチの横で、まるで彫像のように。
手には何も持っていなかった。ざるも、麺も、つゆも。
彼はそれを手放したのだ。
食べ終えたのではない。失ったわけでもない。
“持っていたこと”そのものが、夢だったのかもしれなかった。
通りすがりの人々が、ざる麺を手に歩いている。
皆、走ってはいない。ただ黙って、すするようにして、それぞれのベンチへと座っていく。
彼は、そのざる麺たちを見る。
海苔の刻み方。つゆの深さ。麺の艶。
それらすべてが、問いの形をしていた。
「あれは、“私がかつて走っていた理由”だ」
誰に言うでもなく、彼はつぶやいた。
自分の声が、自分にしか聞こえないことを知っていた。
世界は静かだった。
あまりに静かすぎて、誰かが叫びだすのを待っているような沈黙だった。
それでも彼は、立ち続けていた。
そして、ひとりの子どもが近づいてきた。
小さな手に、つるつると滑りそうなざるを持っていた。
「……おじさん、これ、食べる?」
彼は驚いた。子どもの声が、彼に届いたのは何章ぶりだろう?
「……どうして私に?」
子どもは笑った。「なんか、ずっと味を思い出してる顔してたから」
少しの間、彼はざるを見つめる。
麺は、まだ冷たかった。光を吸い込むように、みずみずしかった。
「ありがとう。でも、いまはもう——」
彼の言葉は、最後まで届かなかった。
子どもはすでに、別の方角へ走り去っていた。
風が吹く。
彼は、手を伸ばしかけて——やめた。
立っている。何も持たずに。
だがその胸の奥では、とっくに別の“ざる麺”が茹で上がりつつあった。
麺はなかった。
ざるも、つゆも、風さえも——何ひとつ、もう存在していなかった。
それでも彼の舌には、うっすらとした“記憶”が残っていた。
つゆの深み、そば粉のほろ苦さ、風に揺れる海苔の香り。
しかし、それらはもはや味ではなかった。
かつて味だった何かだ。
彼は座っていた。どこかもわからない場所で。
あぐらでも正座でもない、ただ存在しているという体勢で。
地面はなかった。空もなかった。白。完全な白。そこに、自分が“ある”だけ。
——世界は、意志を失っていた。
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、すべてのものが「そうである」ことをやめていた。
それでも彼の中に、一滴の思考が浮かび上がる。
「もし、この“無”の中に、まだ味があるとしたら——それは、私の側にある」
そのとき、彼の膝の上に、
一枚のざるが置かれていた。
誰が置いたのかはわからない。
彼自身かもしれないし、存在しない何かかもしれない。
ざるの中には、一本の麺だけがあった。
それは、白の中の唯一の線だった。
彼はそれを箸も使わず、手でつまんだ。
口に運ぶ。
噛まない。啜らない。ただ舌に乗せたまま、静かに感じる。
麺は——無味だった。
だが、その“無味”こそが、彼にとっては最も深い味だった。
「意志のないものを、私はようやく味わっている」
その瞬間、白の世界がすこしだけ、揺れた気がした。
世界が呼吸したように。
あるいは——彼自身が、やっと息をしたのかもしれない。
麺は消えていた。だが彼は、それを“失った”とは思わなかった。
彼の口元に、ひとつだけ、笑みが浮かんだ。