日に日に悪化する中東情勢を見ていると、こちらの思考まで少しずつ戦時化していくような感じがある。ニュースを読むというより、情勢に精神のほうが巻き込まれていく。遠い場所で起きているはずの出来事が、いつのまにかこちらの日常の温度を変えてしまう。私が今日ずっと引っかかっていたのは、その「遠い戦争」が単なる国際ニュースではなく、現代人の理性や倫理や想像力そのものを試しているように見えることであった。ナシーム・ニコラス・タレブの直近の発言をいくつも読みながら、そのことを強く感じた。彼の言葉は相変わらず激しい。侮蔑も断定もある。荒いし、危うい一般化もある。だがその荒々しさを差し引いても、なお見逃せない芯がある。彼は一貫して、戦争というものを「短期的な解決手段」と見なす知性の浅さを批判していた。戦争は不確実性を減らさない。むしろ増やす。取り返しのつかない不可逆性を導き入れ、しかも最初に想定していた以上の長さと広がりをもって世界を傷つける。第一次世界大戦も、イラン・イラク戦争も、開始時には短期戦の幻想をまとっていた。だが現実はそうならなかった。ここにタレブの一貫した警告がある。人は、複雑系に対してあまりにも軽率である。しかも自分が軽率であることすら自覚しない。この「自分が分かっていないことを分かっていない」という無知の二重化は、彼のリスク論の中心にある。今日の中東情勢を見ていると、その警告は単なる理論ではなく、現実の傷口に直接触れているように思えた。
もっとも、私はタレブをそのまま鵜呑みにしているわけではない。彼の発言には、歴史的洞察と同時に、怒りによる粗さがある。国家の政策批判と、人々全体への性格づけが近づきすぎる瞬間がある。起源や民族や宗教の系譜を短文で断定しすぎる危うさもある。そこは慎重でなければならない。だが、そうした危うさを認めたうえでなお、彼の言う「不可逆性」だけは重く受け止めざるをえない。今日の世界は、合理的な調整や制度的な言葉で吸収できる範囲を超えた破壊を、平然と日常化しつつある。戦争はあくまで例外であるはずなのに、例外のまま常態化していく。このとき、単に「反戦」と言うだけでは足りないのではないか。問題は、なぜ人はいつも「今回は制御できる」と思ってしまうのかである。なぜ不可逆なものを、可逆なものとして処理してしまうのかである。
そう考えていたとき、今日読んだ『反脆弱性』の一節が妙に響いた。もしプロザックが二十世紀に普及していたら、ボードレールの憂鬱も、ポーのむら気も、シルヴィア・プラスの詩も生まれていなかったかもしれない、魂のこもったものは封殺されていただろう、というあの一節である。これは乱暴に読めば、苦しみ礼賛にも見えるし、薬物治療への無理解にも見える。実際、その危うさはある。現実の苦痛は詩的ではないし、薬によってようやく生をつなげる人もいる。だからこの文をそのまま標語にしてはいけない。だがそれでも、この箇所が突いている問題は鋭い。すなわち、現代社会は不調や揺らぎや苦痛を、ただ除去すべきノイズとして扱いすぎているのではないか、という問いである。人間にとっての痛みには、もちろん破壊的な面がある。しかし、それは同時に創造の裂け目でもある。苦しみを肯定したいのではない。そうではなく、苦しみまで含めた人間の凸凹を、管理可能な平均状態へと平準化してしまう文明の欲望が問題なのである。ここで私が感じたのは、戦争についてのタレブの議論と、このプロザックの議論が、実は同じ方向を向いているということであった。どちらも、現実の複雑さや過剰さや裂け目を、人間が「処理可能なもの」と思い込みすぎることへの不信なのである。戦争を短期的に制御できると思うことも、苦痛を完全に無害化できると思うことも、どこかで同じ近代的傲慢さに属しているのではないか。
このことは、執行草舟の『超葉隠論』を読むと、別の角度からさらに明るくなる。彼は、日常を正のエネルギーが支配する物質界と呼び、人間の魂を非日常の宇宙エネルギーに晒される中心軸として語っていた。しかもその宇宙エネルギーを、あえて負のエネルギーと呼ぶ。ここで言われているのは、日常を円滑に回すだけでは人間は完成しないということである。日々を安全に、快適に、合理的に生きることはたしかに必要である。だがそれだけでは、人間は自分の存在理由に触れられない。人間には、日常を破ってくるもの、損得や安定や適応を超えてこちらを本気にさせるものがある。その危ういもの、重いもの、暗いものに触れてしまうことによってしか、本当の意味で人生は始まらない。執行草舟の言う「覚悟」とは、そうした負のエネルギーを引き受けて、自分の生を自分で担う決意のことであるらしい。
ここで私はかなり強く引きつけられた。なぜなら、この思想は、今日一日の問題意識とどこかで通じていたからである。タレブは、揺らぎや痛みや外乱を単なる欠陥として扱うなと言う。執行草舟は、日常の快適さや合理性の内部に閉じるなと言う。言葉はまるで違う。片方は確率論と複雑系の言語で語り、もう片方は魂と覚悟の言語で語る。しかし、両者はともに、人間をただ管理可能な存在としては見ていない。人間にとって大事なのは、単に壊れないことではない。むしろ、傷や外乱や負荷や不安定さを通じて、何かが生まれることにある。生きやすさだけでは届かない次元がある。そのことを、今日は両者から別々の仕方で突きつけられた気がした。
ただし、ここでも私は両方に距離を置きたい。タレブの危うさは、怒りと断罪が速すぎることにある。執行草舟の危うさは、「覚悟」「自己責任」「魂」といった言葉が、現実の不平等や制度的制約を見えなくする方向へ滑りうることにある。人生をすべて自己責任として担え、というのは強い言葉である。たしかに、それは借り物の人生を断つ力を持つ。だが同時に、人が社会的存在であること、制度に規定され、偶然に左右され、理不尽に巻き込まれる存在であることまで消してしまえば、その自己責任論は酷薄になる。だから私は、執行草舟の言葉を精神論として絶対化したくはない。むしろ、生を引き受ける主体性の回復という一点に限定して受け取りたい。タレブもまた、歴史の複雑さを嗅ぎ取る嗅覚には優れるが、断定の快楽が前に出ることがある。その危うさを忘れずにいたい。
今日読んだ他の本も、こうした問題意識に不思議と絡んできた。ムーア『倫理学原理』は、善を他の何かに還元できないという、あの有名な主張を通じて、価値判断の安易な短絡を戒めていた。善を快楽や欲望充足や生存戦略に即座に還元してしまうと、人間の倫理的経験は痩せる。ここで私は、タレブや執行草舟の議論ともつながるものを感じた。つまり、人間の生には、すぐに効用や適応や管理の言葉に翻訳できない層があるということである。善は便利さではない。覚悟もまた快適さではない。魂のこもったものも、簡単には健康や安定へ還元されない。ムーアは、まったく違う文脈から、同じように人間経験の厚みを守ろうとしているように思えた。
スタンダール『赤と黒』の上巻もまた、今日の問題意識から遠くはなかった。ジュリヤン・ソレルは、野心と模倣と階級意識の渦の中で、常に自分を演じながら生きている。彼はその場その場で適応しようとし、上昇しようとし、他者の目を計算する。その意味では非常に現代的な人物である。だが、その適応の鋭さは、必ずしも生の充実を意味しない。むしろ彼は、適応しながら空洞化していく。ここにもまた、日常をうまく生きることと、本当に生きることとのズレがある。執行草舟の言う「覚悟」と比べると、ジュリヤンはあまりにも他者の評価に従属している。タレブ的に言えば、彼は外部ショックに脆い。承認と地位という外在的変数に自分の価値を委ねているからである。そう考えると、『赤と黒』は単なる恋愛小説や立身出世小説ではなく、近代的自己の脆さの小説としても読める。
丹羽宇一郎『Z世代は戦後初めて銃をとる世代になるかもしれない』も、今日の中東情勢の感覚を別の角度から補強した。戦争は終わった過去ではなく、再び現実化しうる未来である。その予感が、すでに世代論の内部に入り込んでいる。戦後的な平和常識は、もはや空気のようには信じられない。ここでもまた、「まさかそこまでは起きないだろう」という楽観が壊れている。不可逆なものが、未来の可能性としてこちらへ近づいてきている。これはかなり重いことである。戦争が遠くの例外ではなく、自分たちの時代の潜在的な条件になっている。そうであれば、読書もまた変わらざるをえない。文学も哲学も、もはや教養として静かに摂取するだけでは足りない。何が壊れうるか、何が壊れたあとに残るか、何が破壊から養分を得るかという問いを避けては読めない。
その流れの中で、私は今日、自分なりのトライアドを作ってみた。脆いものは良書・ベストセラー、頑強なものは古典、反脆いものは禁書である。これはもちろん粗い図式であり、危うさもある。禁書であること自体が価値を保証するわけではないし、ベストセラーにも反脆いものはある。だがそれでも、この図式には自分なりの手応えがあった。良書やベストセラーは、その時代の承認と流通に支えられる。読まれやすく、理解されやすく、制度に乗りやすい。そのぶん、時代の空気が変われば急速に弱る。古典は時間に耐える。毀損され、忘れられ、再発見され、それでも残る。だから頑強である。そして禁書は、排除されることで逆に強度を得る。弾圧がそのまま生命力に転化する。禁止が神話を生む。まさにショックを養分に変えるという意味で、反脆い。これは本そのものの本質分類ではなく、本と権力、本と流通、本と時間との関係の分類である。だが、だからこそ面白い。
さらに私は、理不尽に対する態度についてもトライアドを作った。脆い態度は文句を言うこと、頑強な態度は耐性をつけること、反脆い態度は愛することである。これもまた危うい。愛してはいけない理不尽もある。不正義や暴力や侮辱まで「愛せ」と言ってしまえば、それは被害の構造を正当化する。だからここでの「愛する」は、理不尽そのものを道徳的に肯定するという意味ではない。そうではなく、起きてしまった理不尽を最終的に自分の生成の材料へ変えるという意味である。文句を言うだけなら、私は外部ショックに反応を支配されている。耐性をつけるなら、私は壊れない方向へ向かう。しかし愛するとは、その出来事を自分の生の一部として引き受け、そこから意味や強度を取り出すことである。ここにはニーチェ的な運命愛もあるし、タレブ的な反脆弱性もある。執行草舟の「覚悟」とも重なる。理不尽を理不尽のまま終わらせず、それを引き受ける形式そのもののうちに人生の中心を作るのである。
こうしてみると、今日一日の読書と情勢認識とメモは、ばらばらのようでいて一つの問題意識にまとまっている気がする。人間は何によって壊れるのか。何は壊れてもなお残るのか。何は壊されることでかえって強くなるのか。安全、快適、合理、承認、健康、日常、制度、流通、平和。これらはすべて必要である。だがそれらだけでは、人間の核心に届かない。むしろ、それらの内部にいると見えなくなるものがある。魂、覚悟、負のエネルギー、不可逆性、苦痛、裂け目、禁圧、理不尽。こうしたものは本来、歓迎すべきものではない。だが、だからといって最初から除去すべきノイズと見なしてよいわけでもない。問題は、それらにどう応答するかである。人はただ文句を言うだけなのか。耐えるだけなのか。それとも、そこから自分の形式を作り出すのか。
おそらく読書とは、その応答の練習なのだと思う。ただ本を読むのではない。何が脆く、何が頑強で、何が反脆いのかを見分ける練習である。戦争をどう読むか、詩をどう読むか、魂をどう読むか、古典をどう読むか、禁書をどう読むか。もっと言えば、自分自身をどう読むかである。今日の中東情勢が私に突きつけたのは、世界が危ないということだけではない。私の読み方もまた試されている、ということであった。私は理不尽にどう応答するのか。私は日常をただ回すだけで満足するのか。それとも、壊れやすさ、頑強さ、反脆さのあいだに、自分なりの生の形式を見つけようとするのか。今日の読書は、その問いの入口にようやく立っただけではないか。