さまざまな哲学者の言説を用い、「退屈」を体系的に整理した後、ではどのようにそれを乗り越えればいいのかということに一定の答えを出した本。
「退屈」を体系だって定義していてそれが興味深かった。ハイデッガーの分類で退屈の第一から第三形式までを整理し、人間であることとはどういうことなのか、動物であることとはどういうことなのかを説明していて、それなりに説得力のあるものだった。人間であるということは、第二形式を生きているということである。
結論として退屈を乗り越えるには「贅沢」になる(消費ではなく浪費をする。浪費には終わりがあり、満足がある)こと、何か強い興味を惹かれそれにとりさらわれ「動物」になること(環世界を移動する)。なお、何かを楽しむには訓練がいる。
そしてこのように述べる。
退屈と気晴らしが入り混じった生、退屈さもそれなりにあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生であった。だが、世界にはそうした人間らしい生を生きることが許されていない人たちがたくさんいる。戦争、飢饉、貧困、災害ー私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。
退屈と向き合う生を生きられるようになった人間は、自分ではなく他人に関わる事柄を思考することができるようになる、と続ける。どうすればみんなが暇になるのか、みんなに暇を許す社会が訪れるのか。
本質とはズレるかもしれないが見え隠れする著者の倫理観が扱った。「不幸に憧れてはならない」であるとか「階級社会に戻ってはならない」とか。とくに「不幸に憧れてはならない」という断言の仕方がかっこよかった。哲学者にはこうであってほしい。
そうそう楽しむには訓練がいる、というのは「教養とは、学歴でない。自分ひとりで時間が潰せることができる能力である」と中島らもがかつて述べたが(出典は知らん)、通ずるものがあると思った。
わたしも病弱な無職を自称しているだけあってまあ無職で暇で日々退屈して過ごしている。最近は読書も始めたが、それでも退屈な時間というのは人よりきっと多く持っている。労働を免除されているから。ゲームもするし音楽も聴くが、「なんとなく退屈」から逃げられない時間も多い。楽しむ訓練をしよう。消費ではなく浪費をするように心がけたほうがいい。
そういう意味で言うと読書も「消費」から逃れられない。ベストセラーや人が強く勧めるもの、通ぶれるもの、なんかを好んで読んだりしてしまうからだ。けど自分が好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい(槇原並感)。
そのためには自分が何を好きなのかという根本的な問いかけに自分なりのアンサーを見つけることが必要なのかもしれない。