
真白き富士の根 (嶺) 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
1910年1月23日、逗子開成中学校の生徒ら12人が乗ったボートが、七里ヶ浜沖で転覆して全員死亡!

その追悼法要で、姉妹校の鎌倉女学校の生徒が合唱した哀歌 (鎮魂歌) が今に伝わる真白き富士の根(嶺)。
1915年にレコードが発売され、全国に知られることになります。

ところが・・・
逗子開成中学校で 真白き富士の根(嶺) を歌う事は、1993年までタブーでした!
なぜ?それが今回のテーマ d(^_^o)
『真白き富士の根』は学校の方針に反し、益々流行って行きます!
https://www.youtube.com/watch?v=c3qakfE2118&list=RDc3qakfE2118&start_radio=1
これは1935年に上映された映画『真白き富士の根』のサントラ版。
https://www.youtube.com/watch?v=C7K8v9MMJNg&list=RDC7K8v9MMJNg&start_radio=1
1954年にも映画『真白き富士の嶺』の主題歌になっています。

稲村ヶ崎公園にあるボート遭難碑(寄り添う兄弟の像)
1964年逗子開成交友会と鎌倉開成会により建立されました。

“ 富士の根 ”は江の島を “ 富士の嶺”は富士山の山頂を指すと思うのですが・・・真白き富士の嶺の方が分かりやすいですね (^^;;
原曲はアメリカの讃美歌ですが、歌詞は子を亡くした親の心に寄り添う内容になっています。
※ 鎌倉女学校教諭三角錫子の作詞とされていますが盗作疑惑あり

碑文は読み取りにくかったのでこちらで確認しました。
逗子開成中高でこの歌がタブーだった理由も、何となく分かってきました!

遭難事件の犠牲者は以下の12名
牧野久雄 笹尾虎次 谷多操 小堀宗作 木下三郎 奥田義三郎 徳田勝治 徳田逸三 内山金之助 松尾寛之 宮手登 徳田武三
銅像(寄り添う兄弟の像)のモデルになったのは徳田勝治と、その末弟でまだ小学生だった武三!

逗子開成中学のボートに何故小学生が乗っていたのか?
残りの11名は皆中学生!
何故大人は乗っていなかったのか?

七里が浜遭難事件にはもう一つ哀話があります!
文学嫌いの父親に育てられた小説家宮内寒弥。
代表作は「七里ヶ浜」というノンフィクション作品!
宮内の父石塚巳三郎は逗子開成中学の元教師で、寄宿舎の監督をする舎監だった人物!

石塚が不在の日曜日、生徒達は学校のボートに無断で乗り込み江の島に向かったようです!
しかも定員7名の手漕ぎボートに12名も乗り込み、冬の海の突風に煽られて七里ケ浜沖で転覆!

少年達は危険を冒し、何故江の島に向かったのか?
寒弥が事件の真相を探る為現地調査・取材を重ねて書き上げた『七里ケ浜』によると、以下のようになります。

逗子開成中学校の生徒11名と小学生1名が乗ったボートが、朝9時半頃逗子海岸から江の島へ向かった。
当日は日曜日で、監督の教師二人は転勤する同僚の見送りの為不在。

徳田兄弟の長男勝治は海鳥を撃ち落とし鍋にして食べる蛮食会 (闇鍋パーティー) を催す為父親の猟銃を持ち出し、弟3人と共に江の島へ!
冬の七里ヶ浜に地元の漁師が「ならい」と呼んで怖れる突風が吹く事を、生徒達は知らなかった・・・

ボートが行合川の沖合い1.5キロ辺りに差し掛かった時、突風に煽られ転覆!
午後2時頃、いか釣り舟がオールにつかまっていた木下三郎を助けたが、まもなく死亡。

1月25日、兄の徳田勝治と末弟武三の遺体が発見された。
初め一人と見えた遺体は二人だった!
小学生の弟を抱き締め力尽きるまで弟をかばったようだ。
兄弟の母親は半狂乱となり、
石塚教諭を激しく罵った・・・

石塚教諭は逃げるように学校を去り、四国巡礼の後岡山県立農学校の教師となり、その後婿養子となって宮内寒弥が生まれた・・・
宮内が中学生の頃文学を読む事を禁止したのは何故か?

ヒトは目の前の事実より、脳内でイメージした“真実 ”を好む傾向がある様です。
ボート遭難碑によれば事故当日の天候はみぞれまじりの氷雨だそうですが、気象予報士饒村曜氏の見解はこちら!
暴風警報は22日16時に解除され、事故当日の天候は晴れ。
ただし、毎秒10メートル以上の強風だった様です!

逗子開成中学は帝国海軍との関係が深く、時節も重なり少年達は英霊の様に扱われて行きます。
歴史と文学の境目は案外曖昧で、真白き富士の根 (嶺) は史実とイメージが混在した芸術作品の様です!
長文失礼しました m(_ _)m