
前回は北条義時の長男泰時のお話で・・・
今回は“極楽寺殿”三男重時のエピソード!
兄朝時と同じく、正室の息子ですが・・・
人間性は月とスッポン (^_^;)

極楽寺坂切通が開通するのは、1267年忍性が極楽寺に入山した後の事。
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忍性については以前記事にしましたが、では誰が“地獄”に極楽寺を建てたのか?

切通ができるまで、極楽寺へのルートは稲村ヶ崎から川沿いに谷戸を進むのみ!
鎌倉市街から隔絶された場所でした (^^;;

この辺りには鎌倉時代、寺の付属病院がありました。
実朝の死後その事業は母政子に引き継がれましたが・・・
na-mannoeyelevel.hatenablog.com

重時の死後、事業は息子達に引き継がれ、忍性が入山した頃には七堂伽藍を取り囲むように、多くの支院が谷戸全体に展開していた様です。

極楽寺ができる前この辺りは“地獄谷”と呼ばれ、社会から弾き出された“非人”達の集住する場所でした!
彼らの主な生業は、街で亡くなった人の遺体を引き取り、地獄谷に運んで野山に捨てる事・・・

重時や息子達が極楽寺を建立した目的は、地獄谷に捨てられた死者達の霊を弔い、そこに暮らす人々に「非人施行」を施す為だと思われます。
奥の院忍性墓の傍らの宝篋印塔は重時の墓?
※ 奥の院の公開は毎年4月7日8日の2日のみで写真撮影不可

忍性を招聘したのは、薬学と土木技術の知識に秀でていたからと思われます。
土木工事は非人達に新たな雇用を創出。
極楽寺坂下には馬の病院まであったそうです。

鎌倉小町通りに来ると急に若者率アップ!
2024年秋全面リニューアルした『あいざ鎌倉(i-ZA鎌倉)』

本日は若者に混じって食べ歩き (^.^)v
「鎌倉 花明月」の炙りみたらしをチョイス!

五代目執権北条時頼の諸国行脚は創作の可能性が高いですが、伝説の土壌となったのは北条泰時の道理にかなった治世と、極楽寺流北条氏の撫民(ぶみん)政策では?

重時亡き後、極楽寺建設事業を継承した六代目執権北条長時は重時の息子!

北条時頼が亡くなった途端隠居寺の最明寺を廃寺にしましたが、北条政村を始め評定衆も賛成したわけですから・・・

広大な最明寺を維持管理する予算を、福祉センター極楽寺の建設費用に回したかったのかもしれません(^_^)
人間ですからいろんな思惑があったでしょうが ^^;

君いでて民もしづまり九重の塵もをさまる世とはなりにけり
これは頼朝の墓の前に立てられた歌碑に刻まれた歌!
源頼朝研究の第一人者の大森金五郎氏の歌だそうですが・・・


その名の由来は経世済民(けいせいさいみん)
「世を治め民をすくう」という意味ですが・・・
済民を省略しなかった分、北条氏の治世はマトモだったかもしれませんね (^_−