最近の僕の興味は主として「料理」というものに向いている。気がする、ではなく明確に興味・関心を抱いていると言っていい。
日中少しでも隙間時間があれば冷蔵庫の中身を思い出しては自然と献立を考えている自分がいる。行きつけの八百屋に毎日赴いては、お買い得な野菜はないか物色し、訳アリ食材を激安価格で手に入れようものなら心の中ではしゃぎたおして、これで何を作ろうか、何が作れるだろうか帰り道でワクワクが止まらない。まだまだ未熟な自分の知識では心許ないので夜な夜なレシピを調べて、手に入れた食材の使い道の算段を立てていくことも忘れない。
使い切れない野菜が出れば、後日調理しやすいように薄切りにしたりみじん切りしてジッパー付き袋に密封して冷凍庫へ保存し、煮込み料理や炒め料理に対応できるようにしておく。
お肉類も鶏もも肉、豚コマ肉、豚挽肉は常にストックしておいて先の保存しておいた冷凍野菜と合わせていつでもなにかしらの料理が作れるように体制を整えておく。
もちろんお肉類は安いときに買いだめしておく。なるべく1キロ単位で購入し小分けしてこちらも冷凍庫へ入れておく。
そんなことを続けていたらあっという間に冷凍庫はパンパンになってしまうわけだ。そろそろ消費していかないとなーと頭を悩ますものの、この状態を作り上げたこと自体に満足感を覚えてしまい思わず笑みがこぼれる始末。
待ちに待った休日は思い切り料理が出来る日だ。溜め込んだ鬱憤を晴らすかのように気合を入れて朝から料理をする。まずはお弁当用の料理や常備菜作り。動画を観ながら、音楽を聴きながらだとあっという間に料理は出来上がっていく。最近はおやつ作りにも目覚めてしまったので並行して調理していくが、工程によっては結構な空き時間が発生するのでその間に朝ごはんを食べたり他の家事を進めたりする。
そうして仕込みや事前に作りたかったものを用意し終えたら、作り立てのおやつをお昼ご飯代わりに食べながらしばし休憩する。心地好い疲労感とともに穏やかな趣味の時間を過ごしながらもふと思い立って料理レシピを調べている自分がいる。
さて数時間も経てば夕ご飯の準備だ。作りたい献立は事前に構築済みでレシピも完璧。あとはいかに効率良く自分の思い描いた献立を完成させられるかだけ。楽しく、飽きることなく調理を続け、そうして完成した料理に手を合わせて熱々のうちに貪るように食べていく。至福の時間はあっという間に過ぎていくが、洗い物を片付けながらそれでも余韻はいつまでも消えない。
こんな生活を続けてもう3年近くになる。最初は自分の生活を改めて立て直すために軽い気持ちで始めてみたことだった。それがこうして生活の中心に据え置かれている。気づけばすっかり外食することはなくなっていた。誰かと食べる機会には外食することもあるが、そうでなければ能動的に料理をするのが当たり前になってしまった。むしろ自分で料理をする機会が失われることに忌避感を覚えるようになっていった。もちろん仕事帰りは疲労感もあり手の込んだ料理はなかなか難しいが休日の作り置きの常備菜がここで生きてくる。「あーあれがあったなぁ、美味しいんだよなぁ、あれ。なくなったらまた作ろうかなぁ」とウキウキする自分がいる。そういったことを積み重ねていくことが、なんだかとても楽しいのだ。
食事とは、突き詰めれば栄養補給だ。料理とはそれを効率的に行うための手段でしかない。ともするといっそ日常の中での作業というジャンルにカテゴライズしかねない。けれど「料理」は時に付加価値を生む。達成感と満足感だ。こんなにも美味しい料理を自分自身が作れたのだという自己肯定感は栄養補給以上の価値をもたらしてくれる。
もちろん未熟な僕の事だから上手くいかないこともある。思ったほど美味しくない仕上がりになることもある。そんな時は原因を追求する。材料か工程か単に好みの問題か。当たりをつけてもう一度挑戦しその料理に舌鼓を打てた時、それは過去の僕に打ち勝った瞬間だ。その満足感はこれまで味わったことのない快感となる。
外食や出来合いのものではその感覚は抱けない。調理という工程を誰かに任せている以上「美味しい」のは当たり前のことで、もし「美味しくない」のだとしても残念に思うだけでなんら次に繋がるアクションは起こせない。それがとても空虚なことだと今は感じている。自らが成し遂げた成功、もしくは自らが犯した失敗だという感覚がなければそれ以外の感覚が発生する余地がない、という事実はあまりにも発展性がない。だから僕は作る。作らずにはいられない。
情報化社会、いや情報過多社会と言うべきか。今の時代に生まれて良かったと日々感謝を覚える瞬間が料理には常に付随している。ネットで調べれば知らない誰かの成功体験はいたるところに転がっている。言ってしまえば僕はそんな先駆者たちの足跡を後ろから辿っているにすぎない。けれど、「美味しい」「こんなに素晴らしいものを作れた」「調理技術が上達した」「料理についての知識が増えた」といった体験の数々は、たとえ誰かが過去に通ったものであったとしても僕の中で芽生えた、僕だけの特別な感覚であることは間違いない。
もしかしたら創作者になりたいという感覚がそれに近いものかもしれない。創作物をただ楽しむことを搾取と捉えて純粋に楽しめなくなり、それを払拭するために創作せざるを得ないのだ、というとある創作者の話をどこかで聞いたことがある。僕は数多の創作物に触れながらも名前も知らない彼、もしくは彼女のように創作意欲を獲得することはなかった。これからもないかもしれない。それは表現することの心地よさよりも「誰かに評価されるもの」という創作物の側面を必要以上に恐れているからかもしれない。
僕にとって自分と他人とを比較することは想像以上に虚しい行為なのだろう。けれど昨日の自分と比べることは、悪くない。変わらずそのままで在り続けることは昨日までの日常に他ならず、もし昨日の自分を少しでも超えられれば僕は僕の事をほんの少しでも好きになれるのだから。
ちなみに今日は大きなさつまいもを手に入れた。休日にはスイートポテトケーキでも作ろうか。新しい濾し器を仕入れたところだったからちょうどいい。でも多分それだけだと使い切れない。なにせ一本のくせに手の平に収まらないくらい大きいのだ。他によさげなレシピはないか調べないと。
変わらない日々を、少しずつ変わっていきながら、その変化を純粋に楽しんでいる。これが生きている、ということなのだろうか。生活のために始めてみたことがまさか自分の中でここまで大きな存在になるとは思いもよらなかった。大げさな物言いだけど、充実感で胸がいっぱいになる瞬間が本当に楽しくて仕方がない。こうして「生きている」という実感を積み重ねていくことは、着実に僕という存在を形作っている。それはこの上ない喜びなのだろう。少なくとも、僕にとっては。
さて、今日は何を作ろう?