5日(月)夜は日本男子バレーはイタリアと対戦した。準々決勝戦。イタリアは世界ランキング2位、日本は6位。第一戦・第二戦は日本がとった。第三戦は日本がリードしていていが、最後の最後でイタリアが追い上げてきた。27−25、26−24とイタリアがとった。第5戦は先に15点とった方が勝ち。接戦の末、日本は負けた。とても残念だが、よく戦った。とても緊張感のある試合だった。日本はよく戦った。試合が終わった時は11時近かったので、よく戦った選手たちの無念さを思いながら寝ることにした。翌朝目が覚めても、悔しかった。
毎朝、一輪づつムクゲの花が咲いている。何よりもの慰め。一日花と呼ばれるほど寿命が短いが、潔さも感じる。翌日には新しい生命が誕生するのだから。暑さにめげずバラたちも咲いてくれる。暑さを吹っ飛ばしてくれる、植物の生命力に感謝しながら、水やりが楽しい。

6日(火)「広島原爆の日」。79年前に、アメリカが原子爆弾を広島に投下したことで、一瞬にして14万人もの命が奪われた。その後も被曝した人たちは苦しみ、多くの人たちが命をなくした。2度とこうしたことが起こらないよう、「広島原爆の日」に式典が行われる。いつも思うことだが、「沖縄の日」にしても、「広島・長崎原爆の日」には、小学生や中学生が「平和の誓い」の作文を読む。記録のためにメモしておく。
「目を閉じて想像してください。緑豊かで美しいまち。人でにぎわう商店街。まちにあふれるたくさんの笑顔。79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。「ドーン!」という鼓膜が破れるほどの大きな音。立ち昇る黒味がかった朱色の雲。人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。ある被爆者は言います。あの時の広島は「地獄」だったと。原子爆弾は、色鮮やかな日常を奪い、広島を灰色の世界へと変えてしまったのです。被爆者である私の曾祖母は、当時の様子を語ろうとはしませんでした。言葉にすることさえつらく悲しい記憶は、79年経った今でも多くの被爆者を苦しめ続けています。
今もなお、世界では戦争が続いています。79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです。本当にこのままでよいのでしょうか。願うだけでは、平和はおとずれません。色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。一人一人が相手の話をよく聞くこと。「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。私たちにもできる平和への一歩です。さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。
令和6年(2024年)8月6日 こども代表 広島市立祇園小学校6年加藤晶・広島市立八幡東小学校6年石丸優斗」
そして広島市長の「平和宣言」では、「NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議が過去2回続けて最終文書を採択できなかったことは、各国の核兵器を巡る考え方に大きな隔たりがあるという厳しい現実を突き付けています。同条約を国際的な核軍縮・不拡散体制の礎石として重視する日本政府には、各国が立場を超えて建設的な対話を重ね、信頼関係を築くことができるよう強いリーダーシップを発揮していただきたい。さらに、核兵器のない世界の実現に向けた現実的な取組として、まずは来年3月に開催される核兵器禁止条約の第3回締約国会議にオブザーバー参加し、一刻も早く締約国となっていただきたい。また、平均年齢が85歳を超え、心身に悪影響を及ぼす放射線により、様々な苦しみを抱える多くの被爆者の苦悩に寄り添い、在外被爆者を含む被爆者支援策を充実することを強く求めます。」と述べた。
岸田首相は、「結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。」と当たり障りのない、無意味な言葉を並べ、核兵器禁止条約締約国への署名を拒み続ける。日本が率先すべきことなのに、なぜ署名ができないのだろうか。アメリカからの圧力があるとしか考えられない。日本は被爆国であり、アメリカの植民地ではない。