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わたしとそのアバター - M. Carlson & L. Taylor

さいきん「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」について考えたいと思っていて、そのための準備として、以下の論文について。

Carlson, Matthew, and Logan Taylor. 2019. “Me and My Avatar: Player-Character as Fictional Proxy.” Journal of the Philosophy of Games 2 (1): 1-19. https://doi.org/10.5617/jpg.6230.

ビデオゲームにおけるプレイヤーとプレイヤーキャラクター(PC)の関係について、Robson and Meskin(2012)を虚構的同一性説(Fictional Identity View)として定式化したうえでこれを批判し、代替として虚構的代理説(Fictional Proxy View)を提案する……みたいな感じだろうか。

虚構的行為文のパズル

といって、本論文の第一の目的は虚構的行為文のパズルを解くことにある。つまり、わたしたちがビデオゲームをプレイするとき「おれはあっちのバリケードに隠れとくわ」みたく、現実に真でもなければ、素直に考えれば虚構的にも真でない(だってふつうに考えれば、隠れているのはPCなのだ)文を使うのはどういうことか、という問題についてだ。

わりと人気のトピックらしく『ビデオゲームの美学』1でも取り上げられており、具体的には第6章(6.8節〜6.9節あたり)で多少触れられたうえで、第11章では直接的にその解消が試みられている。ただ、虚構的行為文が表しているのは現実の行為である(それなのに虚構的内容を持った語彙によって表現されるのは、その行為を特定・表象する記号の名前として、そうした語彙が自然に使われるからだ)とする同書の立場とは異なり、タヴィナーらが用いる2(そして、その内実が不明瞭であるとして批判される)「虚構的な代理」という概念をもうちょっとしっかり深めてみる方向で解消しましょうね、というもの。

この目的にかんして正直にいえば、自分が虚構的行為文をつかうときの感覚としてしっくりくるのは本論文のそれではなく、「現実の行為を虚構の言葉で表している」という説明ではあった。

PCと同一化している?

ただ、ふだんのことばづかいからもうすこし一般化して、プレイヤーの現実の行為(ボタンを押す、とか)と虚構的な行為(敵を撃つ、とか)の関係、ひいてはプレイヤーとPCの関係をどう感じているかについてはどうか。

これに関して、ロブソンとメスキン(以下R&M)が導入した「自己関与型インタラクティブフィクション self-involving interactive fictions」(SIIF)という概念がある3。SIIFとは、「当のフィクションを消費する人自身についてのフィクション」4のこと。R&Mは(ざっくりいえば)「プレイヤーは自身がPCであると想像している(同一化している)」ことから、PCを操作するようなビデオゲーム作品(の一部)もこうしたSIIFの一種であるとしている。

たしかにシンプルで、いちどこれを受け入れたなら、虚構的行為文を説明したり、ゲームをプレイするときの経験を記述しやすくなるようにはおもわれる。というか、(当人がほんとうにそう感じたかは置いといて/それこそ虚構的行為文の問題として)この前提に沿ってゲームの感想が書かれている例はそれなりに見られる。

……でも、ですよ。ここでもんにょりすることがある。おれってほんとに、そんなふうにプレイしてるか?

してないと思うんですよね。もちろん(自分はなったことないけど)プレイのなかで「没入」感5を覚えたとき一時的にそういう気持ちになる人がいてもおかしくないし、(同様にこの議論を紹介していた)『ビデオゲームの美学』の第6章後半あたりでも述べられていたとおり「なりきりプレイ」みたいなスタイルもあってたいていはそれらの混じったものだろうという話もある6。けどそもそも、そういうことをしようとして/そういうことが起こるものとしてゲームをプレイしてないだろう、と。

物語としての内容と齟齬が起きそうな、けれどゲームの進行を有利にするような選択肢はいつだって頭の中にあるし、カットシーンでPCが起こした行動まで「お前がやったんだろ」なんて言われちゃたまったもんじゃねえ。だいたいさ、選択肢からしか選べない、メカニクスとして用意された行動しか起こせないことは身にしみてる。

じゃあおれとこのPCとは、いったいどういう関係なのか。

論文について

というのが前置きで、ここからようやく論文の内容だ。

虚構的同一性説

著者のCarlsonとTaylor(以下C&T)は、R&Mの主張のうちビデオゲーム作品(の一部)がSIIFであることには同意しつつ、その前提となっている次の虚構的同一性(FI)テーゼに問題があると指摘する。

Fictional Identity (FI): Fictionally, the player is the PC.

これについて挙げられる問題点は2つ。

  • 非対称性の問題
  • 責任の問題

非対称性の問題

もしFIを受け入れるなら、PCの持つすべての性質をプレイヤーも持っている(と想像する)ことになるはず。けれど「すべて」にはさすがに無理があるんじゃないだろうか。

たとえば感情。プレイヤーはPCがフィクション内で抱く感情を(共感するならともかく)そのまま自分のものとして想像することは一般的ではない。

『Spec Ops: The Line』において、PCであるウォーカーが銃を撃ったとき「私が銃を撃った」と想像するとしても、ゲームの終盤、ウォーカーが救うべきドバイの難民に激怒しているとき「私は激怒している」と想像するだろうか。むしろ、ウォーカーの様子に戸惑ってしまうのがふつうだろう7

こういったことはありふれていて、たとえば攻略ガイドや過去のゲームオーバーでの知識を活かし「あそこに強敵が潜んでるから迂回しよう」というのもこうした「非対称性」に含まれる8

責任の問題

もうひとつの問題は道徳的責任の感覚に関わるもの。ビデオゲームをプレイしていて、わたしたちはPCの……自分の行為に対してうしろめたさを覚えることがあるはずだ。なんなら、それこそSpec Opsだとか、ほかにもHotline MiamiやらUndertaleやら、わざわざそれを責めてくるような(悪趣味な)9ビデオゲームには事欠かない。

たしかに「お前(制作者)がやらせたんだろうが」云々とは言えるし、なにより所詮フィクションではある。それでも、「自分でやったこと」と言われると、否定し切れないところがどうしても残る10

ただ、この感覚はPCのすべての行為に対して生じるわけではない。プレイアブルではないカットシーンでのPCの行為に責任を感じたりするプレイヤーは、まあそんなにいないだろう。もしFIを受け入れるとこの違いを説明できない。オールオアナッシングになってしまう。

虚構的代理説

そこで提案されるのが論文のサブタイトルにもある「虚構的代理 Fictional Proxy」ということになる。FIの代わりに、次のような虚構的代理(FP)テーゼを前提としている。

Fictional Proxy (FP): When the player authorizes the PC to perform a fictional action, the PC’s fictional action counts as the player’s fictional action.

ざっくりいえば、「PCがある虚構的行為をおこなうことをプレイヤーが(コントローラーの操作などによって)承認(authorize)したとき、PCのその虚構的行為はプレイヤーの虚構的行為とみなされる(counts as)」というもの。

現実のオークションで代理人を立てるようなものだと考えるとわかりやすい。代理人が手を挙げて入札したとき「わたしが入札した」と言うのが自然なように、PCが敵を撃ったとき「わたしが敵を撃った」と言うのも自然になるよ、と11

この立場には以下のようなメリットがある。実際、先に挙げられていたような問題点を解消できていることがわかる。

  • 選択的な帰属:プレイヤーが承認した行為だけが(虚構的に)「わたしの行為」になる。カットシーンでのPCの行為は承認していないためそうはならない
  • 感情の非共有:代理であるPCの感情まで共有する必要はない。代理人がイライラしながら入札しても、私がイライラしているわけではない。同様に、ウォーカーが怒っていても、私が怒っているわけではない
  • 責任の所在:プレイヤーがいちど承認すれば、その行為に対してプレイヤーに(虚構的な)責任が生じる。コンラッドはここをネチネチ責めてくる

論点はもうちょっとあるが、おおまかにはこんな感じだろうか。

単に「代理ですよ」というだけではなにそれという話なのだけど、(提示された選択肢や限られたメカニクスのなかでの可能な行為を)「承認」すると「やったとみなされる」みたいなあたりが、わりとうまいことPCと自分との関係の感覚を示してくれているようには感じたのでした。このへんのつかず離れずを感じているときがゲームやってるときの楽しみのひとつだとさえ言える。非インタラクティブなフィクションでは、登場人物に感情移入することはあっても、その行為を承認することはないわけだし……。

以上です。

2025-06-02追記

この記事を書いたあとに、ちょうど近く刊行されるらしい『クリティカル・ワード:ゲームスタディーズ』の執筆陣を眺めていたところ、「私であって私でない存在:ビデオゲームのプレイヤーはプレイヤーキャラクターをどう認識しているのか」という論文12をみつけた。『Detroit: Become Humman』を(考えたことを口にしながら)プレイしてもらい、その発言からプレイヤーとそのPCとの関係についてまとめる、というもの。このへんの話題についての先行研究がしっかり紹介されていて(それこそこのC&Tにも言及されている)ためになるし、なにより「おれじしんの実感」ではない実証研究なのがうれしい。

ただ、分析の前提がちょっと図式的すぎるような気もするとか、実感がどうあれ虚構的行為文を用いざるをえないところにビデオエスノグラフィという調査形式でいいのかというのは悩ましいところではあるか。まあでもここらへんはむずいよね……。いずれにせよ、プレイヤーとPCとの距離感をこまやかに見ていくためのとっかかりとして、気になる人はぜひ読んでみてほしいところですわ。


  1. 以前右記でまとめた:わたしたちが『ビデオゲームの美学』を読むこと - 青色3号
  2. たとえば右記とか(いやすみません、正直拾い読みしかしてないです):Tavinor, Grant. 2005. The Art of Videogames. Wiley-Blackwell.
  3. Robson, Jon, and Aaron Meskin. 2016. “Video Games as Self‐Involving Interactive Fictions.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 74 (2): 165-177. https://doi.org/10.1111/jaac.12269. / 右記で読める https://eprints.whiterose.ac.uk/id/eprint/93610/
  4. "These are fictions which, in virtue of their interactive nature, are about those who consume them." 訳は『ビデオゲームの美学』第6章の注30からそのままもらってきた。
  5. こっちもよろしくな!:お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない - 青色3号
  6. なお、『ビデオゲームの美学』でR&Mの議論を紹介している部分(6.9節)ではR&Mのこの立場に距離を置いた書きぶりになっていて(「動機づけることがある」程度までしか言ってない)、実際第11章で虚構的行為文についてのフィクション説を棄却する理由にもなっている……とおもう。そこまでは共感するところなのだけど、あまり詳しく述べられてはおらず、そこにきて本論文は「虚構的代理」をもう一度掘り返して肉付けしているものと見ることはできるか。
  7. 激怒した経験のある人はごめん、C&Tが書いてることやから!
  8. このへんについては、本論文でも紹介されており同様にR&M批判をしているSuduikoの論文がいろいろ詳しい。というかその他の事情含め、あわせて読むのがおすすめです(ただ、個人的にはSuduikoの「虚構的プレイヤー」は、たいていのケースで話を無駄に複雑にしすぎるだけのような気がする)。Suduiko, Aaron Graham. 2018. “The Role of the Player in Video-Game Fictions.” Journal of the Philosophy of Games 1 (1). https://doi.org/10.5617/jpg.4799.
  9. 長くなるのではしょるけど、自分のなかでこの手のやつは「好きだけど悪趣味」みたいな箱に入ってる。プレイをやめろって? ごめんだね!
  10. まあ、「残らないけど?」みたいな人もいるかもしれないが、いずれにせよ「同一化」よりは弱い主張ではある。
  11. 論文のなかで著者自身指摘しているとおり、細かいことをいえばビデオゲームでは「プレイヤーがボタンを押すことでPCの行動を引き起こす」という因果関係があることが通常の代理関係と異なってはいる(「操作」ってのはそういうことではある)。それでもなお(たとえばドローンのような)道具ではなく「代理」と呼ぶのは、PCが虚構的には独立したエージェント(キャラクター)であるという感覚を保持するため……ということでいいのかな。
  12. 髙松 美紀, and 斎藤 進也. 2024. “私であって私でない存在:ビデオゲームのプレイヤーはプレイヤーキャラクターをどう認識しているのか.” 立命館映像学 17: 59-100. https://doi.org/10.34382/0002000822.



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