直近では『逆コーラップス』をやっています1。……ということとはまったく関係がなく、今日は最近読んだ本の話をする。青田『環境を批評する』とサンド『東京ヴァナキュラー』について。
『環境を批評する』を読んだきっかけは、日常美学への興味もありその入門として手にとった青田『「ふつうの暮らし」を美学する』がおもしろくて、じゃあ同著者の博論本もと考えたところにあり……というだけではないんだよ! 実際のところ近年のマイブームである美学的関心のなかで行為の美学みたいなのが盛り上がってるっぽいというのを知ったこともあるし2、ゲームプレイにおける感性のはたらきがそのへんと関わってきそうだとかもあるし3、さらには自分がむかし興味をもっていた「都市をどのように感じてどのようなイメージを生成するのか」みたいな話とも絡むじゃん、とかなんとか、そういういろいろによるところがありました。
というわけで、本書については以下のようにまとめられそうに思う。
本書はカールソンをスタート地点としつつも、環境(自然環境も人間環境も)を美的にとらえる際の課題を2つに分解する。ざっくりいえば「このときの鑑賞の対象ってなんなのか、どうやって決まるのか」というフレーミングの問題と、「価値判断を共有できる(つまり、客観的に批評できる)ものなのか」という規範性の問題。前者についてはバーリアントの参与の美学などを引いてマクロ/ミクロなフレームの重ね合わせなどフレーミングの変化のあることを示しつつ、フレーミングそれ自体も鑑賞の構成要素である(なんなら、このフレーミングの可塑性が発揮されるときこそ感性がよりつよくはたらくのではないか)とする。
で、そうなると可塑性のある対象の側で規範性を担保できないわけで、後者の問題はより解決困難になりそうにみえるが……これについてはシブリー-ブレイディを引きつつ知覚的証明というコミュニケーションの成立によって間主観性が担保されるとし(なので当然多元主義的となる)、かつほんらい無際限である環境をフレーミングするという実践だからこそ、それら多元的な批評者の間での協働が必要となる(このあたりはロペスのネットワーク理論が引かれている)と結ばれる。
もちろん、結論としてはあくまで穏当で、そこまでの論証というか、過去の環境美学との接続と組み合わせが本書のおもしろいところであるためここだけとり出してもあれなんだけども、これはかなり、根拠付けとしてしっかりしてくれているなという心強さを感じたのでした。
……というところなんだけど、読んでいる途中に思ったのが、考現学や路上観察みたいな実践って日本だけでなく海外にもあるんだろうかということ。きっと似たようなものはあるはずなんだけど、それをどうやって調べればいいかわからないなとも思った。そんな話をBlueskyでつぶやいていたところ、紹介してもらったのが『東京ヴァナキュラー』であった(鷲羽さんありがとうございます!)。
こちらもまとめると、以下のようになるだろうか(序章と終章はひととおり読みつつも間の事例の章はざっくり眺めただけだが)。
戦後なにもないところからはじまった東京の歴史保存への意識は、明確な運動を経ることもないまま発展してきたようにみえる。これはどういうことなのか。これに対して本書は、1969年の新宿西口地下広場占拠とその挫折を転回点としたうえで、その後のヴァナキュラーへの意識の事例として谷根千、路上観察、そして江戸東京博物館を採り上げる。ときにナショナリズムや商業主義を利用しあるいは利用されながら、あるいは緊張関係をはらみながら、ローカルな過去/現在の記憶や遺産をみずから掘り起こし規定していくさまの記述。言い換えれば、なにが/どこが、どのような根拠で、誰にとっての遺産であるのか(あるいは現在も含め、なにを/どこを、どのような根拠で、誰にとっての遺産「としていく」のか)についての既存の試みが提示される。
……という感じで、もともとの目的であった「路上観察みたいな実践って海外にもあるんだろうか」についてはわかるようなわからんような感じだった(ドゥヴォール-シチュアシオニストとの対比が出てきてて、たしかに共通するところと対照的なところとが際立っておもしろいとは思った4)のはともかくとして、同時に読んでいた『環境を批評する』とあわせて考えれば、「まさにこれじゃん!」となったんですよね。ここで記述されているのはフレーミングの取り組みであり、ひいてはそれを(部分的に政治的にであれ)共有しようとする営みであるという。遺産を規定するっていうのはそれこそ、批評的言説を発展させるっていうことなのだろう、と。
モニュメント/作品だけでなくヴァナキュラー/環境に目を向けるみたいな話じたいはもはや真新しくもなんともないわけだけど、じゃあそれはいったいどういう実践で、その実践にどういう根拠づけを与えられるのかってのはきっとまだふんわりとしか理解されていなくて、いやまあそんなんなくてもいいよという人もいるだろうけど、やっぱ気になるんじゃんね。というかだから、そこが自分にとって大事やったぽいなと思い返されたのでした。そういう感じで、これ自体おもしろい話だとは思いつつ、自分語りとして! 20年だか昔の興味感心が改めてここらで掘り返されてきたところに、同時にちょっと感じ入ってしまったという記録です。
- SRPGおじさんだからね。そしてSRPGおじさんとして、めちゃくちゃおもしろいんですよ、一戦一戦が重くて……。ひとつのマップに2時間とか3時間とかか平気でかかる。セーブしてリロードしてという繰り返しをストーリーの面で担保してくれているとはいえ、それにしたって重たい。でも(SRPGおじさんとして)この感覚を求めていたところはたしかにある。あんまりやっている人をみかけない(ドルフロファンの人でやっているのは見なくはないんだけど、おれはSRPGおじさんでやっている人をもっと見たいんだ!)ので、気が向いたらやってみてくれよな!↩
- このへんが、それへの疑義も含めて詳しい。↩
- こないだ読んだグェンの論文とか、Games: Agency as Art(こっちもヒィヒィ言いながらなんとか読んだ)とかでも触れられていた。↩
- シチュアシオニストの日常の扱い方についてはこれが参考になった。自分のイメージどおりなところとそうでもないところがあったというか。↩