3月11日。人によってはなんでもない日というとなんでもない日ではなく、東日本大震災から14年になりました。
震災当時のことは3年後のブログに詳しく書いてありました。あの一か月後にちゃめちゃんのおじいちゃんが逝去されて、3週間後に三番目の姪が誕生しました。生命の終わりと始まりを目の当たりにした一年でした。
その姪も含め、今の14歳以下の生徒たちは震災を経験していない。「語り継ぎ、命の大切さと震災の怖さと心構え」を伝えていかないと、今後の震災に役に立ててほしいから。
※以下、2014年3月11日の日記の再掲載を。ちなみに去年は体調不良で通院していました。
おいらはいつものように(当時は入所していて、週一回金曜日に外泊していました)お昼前に家につき、まんまを食って横になっていました。(いま思うと、年度末ということと、施設の作業形態が変わることに不安を感じ、体調を崩して睡眠時無呼吸が悪化していたと思う。)
「八百長問題で相撲もないしなあ」と、たしかミヤネ屋を見ていたらゆらゆらと。
外は直前に鴎が(海が近いので)なぜか一目散に山に飛んで行ったので、風が強いのかという思った記憶は。
テレビをみたら当時ニュース担当の豊田アナが報道フロアの机に隠れている。
我が家では地震イコールNHKという暗黙の決まりがあり、とっさに変えたら、国会の予算委員会室も揺れていて、ほどなくニュースになり、お天気カメラがものすごい状態に。
もっと怖い思いをしたのはちゃめで、タクシーで通院先から帰る際に、サンドイッチ状になった雲を不思議がってみながら走っていたら、田園の中を走る道路が波を打ち、とっさに路肩に車を止め、揺れが収まるな否やあとは一目散に目的地へ。
あの辺は昭和40年代に起きた「新潟地震」で液状化した地域。
とにかく揺れが長かった。収まるかと思ってたらまた来るし。3分以上は揺れたでしょうか。体験で行う地震を起こす車の揺れとは違いました。
とっさにものが落ちたり、タンスがひっくり返っても、からだが動かなかったと思う。怖くて。幸い棚がずれ、仏壇のお供え物が落ちた程度でしたが。

とにかくテレビは写真のように
日本全国津波だらけ
の警報領域の地図だけ見てもぞっとします。パロディーで、動画では見たことはありますが、現実になるとは。
しかも写真の渦にのまれそうな船。よく見ると、震災3年ほど前に松島に旅行に行った際にちゃめと乗った遊覧船のようです。無事だったのでしょうか。
とにかく地元の情報が少ない。
意外に民放は独自ニュースに切り替えが多かった。その間写真のようにヘルメットをかぶりながら。ラジオのほうが頻繁に入りましたね。
特にNHK仙台は、夜になるとアナウンサーがゆっくりとした口調で、安心感を与えるメッセージを絶えず読んでいました。ただ中には「ほかの情報を入れろ」という問い合わせもあったみたいですが。
その後写真のようにL字デッカー字幕になりましたが、福島のようなトリプルはさすがに醜い。
おいらはその後、実家が携帯とPHSがダメになり(停電にはならなかったが、電波を経由していた基地が停電してバッテリーが切れたため)、ちゃめや友人に家の電話で連絡というのを頭から抜け落ち、まっ黒い津波が音もなく田んぼや仙台空港に押し寄せる光景のショックで動転し、施設に戻る車の中で携帯がつながり、着信40件、メール38件、災害伝言ダイヤル8件が入っていて、しまいには夜だるまは死んだことになっていました。
その後、通院に行っても薬が1か月分もらえない。一部新潟経由のコンビニにしか物が来ない。ガソリンがない。大変な状態はまぁ2か月は続きました。