
- 「月刊コミックビーム史上、最重要な漫画10選」なんて誰も興味ないよ?
- 前史としての「アスキーコミック」と「ファミコミ」
- 奥村勝彦という男
- 大場渉とゆかいな仲間たち(fellows!)
- 見えざる水脈(壁村耐三について)
- KADOKAWAの侵攻と緊急事態宣言
- コミックビームの夜明け(アルバ)
- 究極VS至高 対決!!コミックビーム編
- 次回予告
「月刊コミックビーム史上、最重要な漫画10選」なんて誰も興味ないよ?
私がそうやってうそぶくと、
「だからこそ、あなたが【月刊コミックビーム史上、最重要な漫画10選】を語らないといけないんでしょ」と友人に言われた。
そうはいっても、荷が重い課題であることはわかっていた。月刊コミックビームは、ただの漫画誌ではないのだ。他の雑誌と比べることができない、唯一無二の存在である。
例えば、月刊アフタヌーンについて語るのならば、同じ講談社のモーニングやヤングマガジンとは何が違うのかという切り口からはじめてもいいし、他社のライバル誌で言えば月刊!スピリッツ、ヤングキングアワーズ、あるいはかつて存在した月刊IKKIなどとの比較で語るのも面白いだろう。
しかし、月刊コミックビームにおいてそうした比較を行うことは困難だ。むしろ、史上最重要な漫画10選を語ることによって、その比類なさを示すことを本記事では目指すことにしたい。
そして月刊アフタヌーンについて語った記事のおさらいにはなるが、【史上最重要】とは以下の2点のどちらかに当てはまることを意味する。
●雑誌の歴史における事件や転換点に深く関係している漫画であること。
●雑誌の方向性や後継作品に大きな影響を与えた漫画であること。
では、行ってみよう。
前史としての「アスキーコミック」と「ファミコミ」
「そんな目で見るなぁ~、マンガとゲームがドッキング~、11.11新創刊!コミックビームぅ~♪」*1
漫画の歴史の中で1995年11月11日(土)は、月刊コミックビームの創刊によってながく人々の記憶にとどめられることになるだろう。その創刊にあわせて、冒頭のような、胡乱な内容のCMソングがテレビで放映されていた。「マンガとゲームがドッキング」というフレーズが示す通り、当初のコミックビームはアスキーの花形ゲーム雑誌である「ファミ通」にあやかった漫画雑誌であった。*2
創刊当時の編集長は金田一健*3、アスキーで漫画編集の経験を積んでいた彼は、漫画雑誌を新創刊するという会社の方針に従い、そのスタッフを集めるため秋田書店から奥村勝彦という男を引き抜く。このような引き抜きが行われた理由は、奥村によるアスキー入社時の回顧から想像することはできる。曰く。
最初は面食らったね、ほとんど会社の体をなしてなかったから。俺が座った席の1メートルぐらい横で、女の子が号泣してるの。もう一人の女の子がそれをなだめていて、話を聞いてたら彼氏に振られたからって。あと会社に徹夜で泊まり込みしてるヤツが近くにいたんだけど、俺も忙しくて一週間ぐらいずっと会社にいたから観察してみたら、そいつ1日8時間寝てるんだよ(笑)。*4
曰く。
「ゲーセンだとゲームしてカネ取られるけど、ここだとゲームやってカネ貰える」なんて勘違いしたバカが結構いた。*5
ありていに言って、当時のアスキーは良くも悪くもテキトーな社風であり、新しい漫画誌を創刊できるような熱意を備えた人材がいなかったのだろう。
とはいえ、奥村の合流によって新編集部は無事発足された。当時の編集部は、金田一と奥村を含めて三名のみであった。とりあえずファミ通の増刊として『ファミコミ』を発刊し、一年後には月刊漫画誌として先行していたアスキーコミックを休刊して、二つの編集部が合流することになった。そして、運命の11月11日、『月刊コミックビーム』は誕生した。

(新雑誌を創刊するために作った『ファミコミ』の巻頭漫画は、「トルネコの大冒険」を無駄にもじったタイトルで、編集の奥村と桜玉吉がプロレスをする内容の謎漫画だった。)
編集部の体制は万全とは言えなかったかもしれないが、アスキーはもともと実力ある作家を多数抱えていた。既にファミ通で活躍していた吉田戦車や鈴木みそ、近藤るるる、さらにはアスキーコミックで活躍していた唐沢なをき、しりあがり寿、竹本泉などである。これで、なんとか漫画雑誌としての体裁は整った。しかし、事態は風雲急を告げる。初代編集長の金田一健は一年半ほどの短い在任期間で他部署に移ることになり、新編集として奥村勝彦が任命されることになってしまったのだ。
当時のアスキーは、内紛による分裂騒動で非常に不安定であった。赤字を出せば即廃刊となってもおかしくない。そんな状況での編集長交代劇である。
そこで奥村がとった方策は明確だった。絶対に10万部以上売れる本を出すということだ。他紙で『シャカリキ!』『め組の大吾』などのヒット作を連発していた曽田正人の『曽田正人作品集: Fire and forget』を刊行したのだ。これがなければ、コミックビームは早々に廃刊になっていたかもしれない。
奥村が経験したアスキーの歴史は、分裂と身売りの歴史だった。奥村編集長は在籍中に、2度の分裂と、3回の身売りを経験している。この事実を軽視すべきではない。コミックビームは採算性を度外視した作家主義の雑誌だと誤解される向きもあるようだ。それは一面的には正しい。しかし、それ以上にシビアな商業主義に貫かれている。売れなければ雑誌が潰れるという強いプレッシャーに常時さらされながら、売れるためにこそ作家性を追求し続けた雑誌なのだ。
奥村勝彦という男

奥村勝彦は、月刊コミックビームの編集長として15年以上(編集総長時代も合わせれば、21年以上)君臨した。雑誌の歴史の大半を占める期間である。ということは、「コミックビームらしさ」とは「奥村勝彦らしさ」であると言っても過言ではない。
奥村はそもそもどのような編者だったのか。彼は秋田書店時代に『GRANDチャンピオン』の編集に携わっており、それが休刊することが決定したタイミングで、たまたまアスキーの金田一から引き抜きの打診があったのだ。
奥村はコミックビームのことを「『GRANDチャンピオン』の仇討ちをやってるんだ」*6と回顧している。実際に、初期のコミックビームの主力作家は、桜玉吉、いましろたかし、狩撫麻礼、カネコアツシ、須藤真澄など、『GRANDチャンピオン』の連載作家を引き継いでいる。そもそも曽田正人の短編集を出すことができたのも、秋田書店時代に持ち込みに来ていたからだ。*7
その中でも、特に長く深い付き合いを持つのが桜玉吉であり、彼の代表作の一つである『防衛漫玉日記』はビームの看板的な存在でもあった。あるいは、ファミ通から生え抜きで育ってきた新人作家もいた。羽生生純である。奥村と桜玉吉が審査員をつとめたファミ通の新人賞から拾い上げて、映画化もされたヒット作『恋の門』がでるまで育て上げたのだ。
新人賞と言えば、ビームの新人賞でデビューした作家には志村貴子がいる。それまでの志村は「COMICパピポ外伝」に東京堂えるえる名義で短編をいくつか掲載していたが、経験に乏しく、いきなり連載を任せるのはかなりの賭けだったはずだ。

それでもコミックビームはいきなり『敷居の住人』を連載させた。後にヒットしたからよかったものの連載当初は全く人気がなかったという。志村本人が「『コミックビーム』じゃなかったら続けさせてもらえなかった」と回顧しているほどだ。*8『敷居の住人』の連載を終えたあとも、すぐに『放浪息子』の連載をスタート、他誌にも活躍の場を増やし、作家として大きく成長した。
ビームには、売れなくても連載させたからには育て上げるという姿勢があった。奥村は「トレンドやら市場分析でジャンルやらストーリーやらキャラクターを作り出すような方法(中略)そんなやり方は俺には全く出来なかった。ほぼ、体が拒否してたもん。面白いって主観を売れやすいって客観が凌駕してはならない。」*9と言う。だからこそ、他紙でヒットすることができなかったベテラン作家を招へいすることにも熱心だった。手塚賞を受賞後、ずっと集英社で活躍していたうすね正俊がアニメ化までされた『砂ぼうず』をビームでヒットさせたことは好例だろう。他紙で酸いも甘いも経験した作家がビームで、第二の作家人生を歩む例は、松田洋子、おおひなたごう、三宅乱丈、山川直人、三家本礼、新井英樹など枚挙にいとまがない。
奥村が育て上げたのは、作家だけではなかった。秋田書店から後輩の編集者であり、当時ニューヨーク大学に留学していた岩井好典*10を日本に連れ戻し、二代目編集長を譲り渡すまで育て上げている。岩井の編集方針も、基本的に奥村の考え方に近しい。曰く。「漫画の中で作家性みたいなものに賭けるとお金がかからないんですよ(笑)」「人気データ至上主義ではありません」*11トレンドや人気に流されることなく、自分に感性を信じて作家性にベットするやり方である。また、岩井の功績として、「ヤングチャンピオン」時代につながりのあった丸尾末広*12を招いて、江戸川乱歩・原作『パノラマ島綺譚』をスタートさせたことがある。この手法は、近藤ようこに津原泰水・原作『五色の舟』を連載させるなど、定番のものになっていく。
しかし、すべての後輩編集者とうまくいっていたわけではない。言ったではないか、「アスキーの歴史は、分裂と身売りの歴史だ」と。
大場渉とゆかいな仲間たち(fellows!)
奥村勝彦から袂を分かった、ひとりの編集者について知っておくのもいいだろう。
その男の名を大場渉という。
彼が、漫画に対して人一倍強い情熱を持っていたことは間違いない。1996年、大場は就職活動でアスキーの内定を得ると、在学中に自ら希望してコミックビームのアルバイトに手を挙げた。正社員として入社後は「ファミ通」の編集部に配属されるも、人事に掛け合ってコミックビームへの異動を勝ち取った。もともと将来を嘱望されていた編集者だけあって、漫画部門においても早々に実績を上げていくことになる。2001年に森薫『エマ』、2002年に岩原裕二『いばらの王』、福島聡『機動旅団八福神』、入江亜季『群青学舎』を担当編集として立ち上げたのだ。
編集者としての大場が、先の奥村や岩井と違った点は大きく二つある。一つは、同人誌即売会で新人作家を発掘したことだ。これは今となっては当たり前の手法だが、当時は出版業界のタブーに近かった。大場自身も「でも当時はまだ、即売会から作家を連れてくることは出版界ではタブーな時期だったんですよ。もっと昔はありました、奥村さんも入ったばかりの沢さんをコミケに連れて行ったりして。でも、僕がマンガ編集を始めた90年代末はほぼタブーになっていて」*13と回顧する。特に稀有な成功例となったのは、森薫と入江亜季だろう。
二つ目は、新人作家の育成に力を入れた点だ。森薫は、漫画の描き方を「ほとんど大場さんから教わりました。ストーリーの構成からコマの割り方、見開きの見せ方まで、作画以外のありとあらゆることを教えていただきました」*14と言う。また、大場は他紙の新人作家を招いて合同勉強会も主催していたということだ。なぜこれだけ新人作家の育成に熱心なのか。大場自身はこう説明する。
森 そうだと思います。だから編集者さんの役割も、おそらく大手とはまったく違うんじゃないですかね。まあ、私はあまり大手の編集者さんを知らないですけど(笑)。
大場 それはもう全然違いますよ。というよりも、うちが大手と同じやり方をしていたら、いっこうに漫画家は育たないし、ヒット作なんて夢のまた夢になってしまいます。*15
この考え方自体は、そう特異なものじゃない。例えば、岩井好典も「漫画の中で作家性みたいなものに賭けるとお金がかからないんですよ」と言っていた。この発言の真意は、コミックビームは大手のように大量の作家を抱えて競争させることはできないからこそ、編集者がこれだと思った作家に賭けて育成するのが結果的に金もかからないし効率的だ、ということだろう。しかし、奥村や岩井には、そういった理屈を論理だてて言葉にすることをしなかったし、新人作家の勉強会を開くなど、育成をシステム化することもなかった。目指す理念や目標は同じでも、論理派の大場と感覚派の奥村らとでは編集者としてのストラテジーが違ったのだ。
彼らの決裂が決定的になったのは、2006年10月、増刊企画として「コミックビームFellows!」が発行されたことだ。これは単なる増刊ではなく、大場がコミックビームから独立するための布石だった。当時の心境を大場はこう語る。
僕はコミックビームで8年半働いていたんですけど、最後の半年か1年くらいは、当時の編集長の奥村(勝彦)さんとデスクをやっていた僕とで、つくりたいマンガが違っちゃったんですよ。それで袂を分かつことになり、会社に対して新雑誌の企画を出して抜けたんです。それがFellows!。*16
この時、大場が何に不満を持っていたのか。「コミックビームFellows!における七つの掟漫画」が参考になるだろう。

七つの掟とあるが、後半の四つはほぼ同じことを言っているのであまり意味はない。重要なのは前半の三つだ。前半の三つの掟はすべて新人育成を円滑にすすめるためのルールになっている。
まず、新人とベテランを単純に比べた場合、やはり経験のあるベテランの方が完成度の高い作品をあげてくることが多いだろう。つまり、自由競争に任せればベテランの作品ばかりが採用されることはままあることである。だからこそ、掟として新人からベテランまで幅広く載せることを定めた。さらに新人作家にとって、長大な作品をかくことは難しい。短い読み切り作品が最もハードルが低いはずだ。だからこそ、短い作品でもいいし、連載ではなく読み切りに限ると定めたのだ。
「コミックビームFellows!」という雑誌そのものが新人作家を育てるための育成装置であったのだ。
さらに、論理派の大場らしく商業的にも「コミックビームFellows!」は特殊な仕組みを持っていた。それは、雑誌としてではなく書籍として発売したことである。雑誌であれば一定期間で書店の棚からなくなるが、書籍扱いであれば棚に残り続けるのだ。これは雑誌が売れなくなってきたことに対する対抗策であった。今となっては、これも一般的なやり方になっているが、当時は盲点であった。
しかし、大場渉の話はこれぐらいにしておこう。あまりやりすぎると本論のテーマからはずれてしまいかねないからだ。ここではつぎのことを注意しておくだけで充分だ。つまり、大場はコミックビームから何を学び、何を引き継いだのかということだ。
見えざる水脈(壁村耐三について)
奥村勝彦が秋田書店で編集者としてのキャリアをスタートさせたという事実は案外、重要な問題である。
なぜなら、ここまであえて名前を伏せてきた編集者の存在がかかわってくるからだ。
それは、壁村耐三である。

壁村耐三とは、藤子不二雄A『まんが道』などにも登場する名物編集者であり、ヒット作を出せなくなっていた手塚治虫に『ブラック・ジャック』を連載させ、「週刊少年チャンピオン」の黄金期を生み出した功労者として知られている。
そんな伝説的編集者のことを、奥村は「俺みてえな野良犬のような人間を拾ってくれた壁村さん。編集者という生き方を俺に叩き込んでくれた壁村さん。テレ屋で絶対にやりたくないであろう仲人まで引き受けてくれた壁村さん」*17と慕っている。奥村の後輩である岩井も「”壁村耐三のラストサン”のひとりであるということは、自負であり、我が宿業である」*18と述懐する。
壁村が現役の編集者だった最後の時代に秋田書店で立ち会ったのが、奥村と岩井なのだ。彼らの関係からは、ただの師弟関係以上のものを感じさせる。壁村耐三と奥村勝彦は偶然同じ日に秋田書店へ辞表を提出したという出来すぎた話すらある。*19
奥村は、コミックビーム創刊のことを振り返って「特に意識したのは、漫画への”原点回帰”」*20だと語る。ここまで言えば自明であろうが、奥村の言う”原点回帰”とは、”壁村耐三が編集していた頃のチャンピオンへの回帰”を意味するはずだ。奥村にとっての日本漫画の原点とは「鳥獣戯画」なんかではなく「壁村耐三」であるべきなのだ。
実際に奥村たちはそれを忠実に実行していく。
例えば、コミックビームが漫画業界で揉まれてきたベテラン作家たちに活躍の場を与えたことがそうだ。これは壁村のやり方と同じである。
第一期壁村時代(1972~1981)はベテラン作家が多かったけど、あの方たちは全員、壁村さんを絶対的に信用しているところがあった。みんなどん底を経験したことがある方ばかりだし、そこを壁村さんに救われたと思っていたんじゃない? 手塚治虫先生は『ブラック・ジャック』を描く前は大変な状況だったわけだし。山上たつひこ先生も双葉社で『喜劇新思想大系』って凄いマンガを描いたけど、商業的には成功とまではいかなかったのを『がきデカ』でヒットしたわけだし。『750ライダー』の石井いさみ先生もだよね。*21
岩井はより直接的にその影響を語っている。
それに対して、チャンピオンは、『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『ドカベン』の時代から、他の媒体で描いているとんがった作家を、より自由に描かせて、花開かせる、そういうラインがオーソドックスなものだったわけです。ゼロから新人の作品を起こすことももちろんしますが、チャンピオン出身の僕にとっては、ビームはすごくオーソドックスな作り方をしているつもりなんです。*22
また、人気データ至上主義を廃し、自分が面白いと思った主観を信じる姿勢も、奥村たちが壁村から学んだことだった。
俺の師匠に壁村耐三さん(※)という、トキワ荘時代の漫画家と一緒にやってたオッサンがいたのよ。その人は、例えば「がきデカ」はアンケートがケツのほうだったとき、社長から毎日のように「あんな下品なきたねぇモンやめろ」って電話がかかってきたんだけど、ああそうですかとガチャンと切って、次は巻頭カラーにするぞと。*23
あるいはもっと重要な共通点として、編集会議や連載会議を開かないということがある。
第一期の頃の壁村さんの編集方針はどんなものだったんですか?
植木 編集方針も何も壁さんの特徴のひとつとして、絶対に編集会議を開かないから、オレらはなんもわかんない。(中略)そういう人だから、名言も残したよ。オレが覚えているのは「編集会議は易きに流れる」ってセリフ。*24
コミックビームにおいても編集会議は実施されていない。
編集会議を経ずに、各編集者が編集長に個別にプレゼンして、自分で押すものを掲載できるような形ですね。*25
世間のトレンドや人気に流されず、編集者が自身の主観を信じて作家に賭けることこそが壁村流編集術の肝であった。それゆえ会議の存在はかえって毒になる。「編集会議は易きに流れる」とはよく言ったものだ。
そして、壁村流編集術を継承したのは奥村と岩井だけではなかった。奥村らと袂を分かった大場渉もそうだったのだ。
大場は誰よりも壁村流(秋田書店流)を高く評価していた。
おもれーマンガをやったら売れる、それは秋田書店流派で。(中略)『バキ』を出した編集部が『弱虫ペダル』を出したり、また次の担当が『BEASTARS』をつくったり。本当、秋田書店流派っていうのは一撃必殺。なんていうか狙ってるサイズが他のサイズと違うんですよ。ホームランバッタータイプの編集者が多い出版社だと思います。*26
そして、漫画編集者を自分の主観を信じて作家に賭ける存在として”博打うち”に例えた。
マンガという商売は博打なんですよ。(中略)舟券を買ってるときと一緒で作家を信じるしかない。読み切るんです。しかし来ない(笑)。何やってんだよ!って、今日は11月23日だろ、1と2と3は必ず絡むはずだろ!って(笑)。でも来ない。ときどき大当たりする。ほら、自分の読みは当たってた。そういう感じなんですよ。*27
だからこそ、「Fellows!(現・ハルタ)」においても、編集会議は行わない方針を徹底しているのだ。*28
大場が奥村らと袂を分かったのは単なる仲違いではなかった。
大場こそ誰よりも奥村の本質を、そしてそこに連綿と流れる壁村耐三の血を見抜いていた。壁村自身が感覚派だったこともあり、奥村はその編集術を感覚でしか引き継ぐことができなかった。むしろ、それをよく理解し咀嚼し、言語化・システム化したのが大場のなしたことであった。
KADOKAWAの侵攻と緊急事態宣言
2013年10月、KADOKAWAがエンターブレインを吸収合併する。
当然ながらその衝撃は大きく、危機感を持った森薫は会社の上層部に「ハルタを自分に売ってくれ」と直談判したという逸話が残っている。*29
結局、それは杞憂に終わったわけだが、森薫が心配しすぎたというわけではないだろう(個人で買収しようとするのは豪胆すぎるが……)。2010年代の漫画雑誌業界ははっきりと衰退局面に入っていた。「月刊IKKI」や「マンガ・エロティクス・エフ」など、一部に熱狂的ファンのいる漫画誌が相次いで休刊に追い込まれており、漫画誌は不採算部門として出版社に見放されつつあったのだ。
では、なぜそのような状況の中でコミックビームは生き残ることができたのか。はっきり言って、ゼロ年代の終わりにヤマザキマリの『テルマエ・ロマエ』という特大ホームランを引き当てたことが大きい。とはいえ、その遺産だけでいつまでも持ちこたえられるわけでもなし、さらに悪いことにはヤマザキマリとの関係も悪化して離縁されてしまうことになる。*30
また、この頃から漫画編集者には電子書籍部門やグッズ展開や映像化などのライツ部門への対応が強く求められるようになる。本来、KADOKAWAはそういった部門に強い会社であるが、奥村らがそういった会社からの要求に苦慮している様子が当時のインタビューなどからはうかがえる。
結局のところ、コミックビームの状況は改善せず悪化の一途を辿った。ついには創刊21周年を迎える2016年に、奥村らは公式サイトで異例の「緊急事態宣言」を出すことになる。そこでは「ビームがとにかく売れていない」「ビームだけでなく漫画雑誌自体がこのままだとなくなってしまう」という叫びが綴られていたのだ。*31そこで打ち出された打開策は、まずニコニコチャンネルを開設し、月額1980円のプレミアムサービス「読もう! コミックビーム」をスタートすること、デジタル雑誌である『コミックビーム100』の創刊などがある。
しかし、それらの試みが成功することはなかった。雑誌の衰退を見て取り、書籍として雑誌を売るという裏技を作った大場のような狡猾さが彼らにはなかった。彼らは愚直だった。
2019年4月、編集総長の奥村勝彦は配置転換として異動したのち、KADOKAWA社内に新設されたインバウンドコミック編集部の編集長に就任し、4代目編集長として清水速登*32が編集長へ就任した。
奥村は配置転換になったことを冗談めかして「俺みたいなわけのわからない奴をほっておくと危険だと判断したってのもあるだろうね」*33と分析するが、KADOKAWAの思惑としては当たからずも遠からずという感じではないだろうか。
これにて、第一期コミックビームは終了し、全く新しい時代がはじまることになる。
コミックビームの夜明け(アルバ)

清水速登は、編集長就任後1~2年は「新しいものをガンガン発表したい」*34という意識で誌面を作っていったとのことだ。実際に誌面の印象はがらりと変わった。これまでのコミックビームには見られなかった作家たちの単行本が次々と刊行されたのだ。具体的には、西尾雄太、にくまん子、詩野うら、るぅ1mmなどの作家たちによるものだ。
清水がどういった経歴の人物かと言えば、コミックビームに配属されるまでは、エンターブレインのホビー書籍部に所属して経験を積んでいたのだ。ホビー書籍部はネットから探し出したweb小説を書籍化していた部門である。(代表作は「まおゆう魔王勇者」「ニンジャスレイヤー」「オーバーロード」「幼女戦記」など)
つまり、ホビー書籍部からコミックビーム編集部にやってきても、清水は基本的には同じことをやっているのだ。ネットや同人誌即売会から作家を探してきて書籍化するということだ。その中で、最たる成功例は和山やまの『カラオケ行こ。』だろう。オリジナル同人誌の即売会であるコミティアに出品していた作品をまとめた『夢中さ、きみに。』を刊行して、雑誌での連載につなげて大ヒットさせた。
そして、2023年からは谷口菜津子『ふきよせレジデンス』や文野紋『ミューズの真髄』を立ち上げた西山若奈*35に編集長を譲り、編集部員全員が30代前後という体制になった。台湾・台北生まれの作家である高妍の『緑の歌 - 収集群風 -』のヒットなど、今やコミックビームの誌面は他のどの雑誌よりも若々しく多様性にあふれたものになっている。
これからのコミックビームがどうなっていくのか、期待して見守りたい。
究極VS至高 対決!!コミックビーム編
ついに、究極の「月刊コミックビーム史上、最重要な漫画10選」が完成した。
【究極の10選】
★曽田正人作品集: Fire and forget(曽田正人)
★防衛漫玉日記(桜玉吉)
★砂ぼうず(うすね正俊)
★エマ(森薫)
★カラオケ行こ。(和山やま)
★緑の歌 - 収集群風 -(高妍)
しかし、なぜだろう。
せっかく究極の10選が完成したのに、私の心は空しいままだった。とはいえ、せっかくなので、最初にこの記事を書くように励ましてくれた友人には究極の10選を送ることにした。
しばらくして届いた友人からの返事には、こう書かれていた。
「10選は人の心を感動させて初めて芸術とたりうる」
「今のお前はどんな10選を作ったところで知識自慢の低俗な見せびらかしで終わるだろう。そんなお前が究極の10選なんて滑稽だ」
私は激怒した。
そこまで言うなら、本当の10選を選んでやろうじゃないか。
自身の感性と性癖にただ身を委ねた至高の10選を。
【至高の10選】
★ドロップ・バイ・ドロップ(松本 充代)
★DAY DREAM BELIEVER again(福島 聡)
★好きだけじゃ続かない(松田 洋子)
★かすみ伝S(唐沢 なをき)
★さよならもいわずに(上野 顕太郎)
★教室の片隅で青春がはじまる(谷口 菜津子)
★有害無罪玩具(詩野 うら)
★水野と茶山(西尾 雄太)
★甘木唯子のツノと愛(久野 遥子)
★アウト・オブ・ザ・コクーン(原百合子)
反少女マンガの傑作です。松本充代は時代の中で忘れられつつありますが、今こそ再発見されるべきでは。
オカルティックでニューロティックな犯罪劇なのですが、話の内容はさっぱりよくわからない。しかしながら、読み返すたびに新たな面白さを感じる。麻薬的な魅力のある作品なのです。何より、福島聡が描く絵は現実以上に生々しく美しい。
ペーソスとユーモアにまみれた青春を描かせたら、松田洋子の右にでるマンガ家はいません。
ひとつの出来事を99通りの別の文体で書き表した、レーモン・クノー『文体練習』という言葉遊びの奇書がありますが、「カスミ伝」シリーズはマンガ版の『文体練習』です。マンガ好きなら涎が止まらないはずです。
「妻の死」という極めて個人的な問題を扱いながら、そこに自分が今まで培ってきたマンガ的表現力のすべてを注ぎこもうとする、ゾッとするようなプロ根性の結実がここにある。
谷口菜津子の描くマンガは全部面白い。そんなの常識。そのことに僕が初めて気が付いたのが本作でした。
きらめく奇想。なつかしい世界の果て。
生傷のたえないハード百合マンガの傑作です。後世に残したい百合遺産ベスト100のうちの一つです。
アニメーション的な動きをマンガの表現の中で実現させた作家は数少ないと思いますが、久野遥子はその代表的な作家です。あまり使いたくない言葉ですが、天才です。
原百合子は、ハルタに持ち込むつもりだったのを間違えて、ビームに持ち込んでしまったらしいです。最高ですね。
次回予告
さて次回は、
「月刊少年エース史上、最重要な漫画10選」
「月刊Gファンタジー史上、最重要な漫画10選」
「このマンガがすごい!史上、最重要な漫画10選」
の3本です。たぶん……
*1:https://www.nicovideo.jp/watch/sm16354425
*2:ファミ通のコーナーであった「ビデオゲーム通信」というのを強引に省略して「ビーム通信」と呼んだことから、「コミックビーム」という誌名は生まれた。
*3:在任期間は1995年12月号(創刊号)から1997年7月号まで
*4:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1511/18/news118.html
*5:『月刊コミックビーム2020年12月号』25周年記念スペシャル対談 桜玉吉×O村
*6:https://dengekionline.com/feature/omura/
*7:岩井好典『漫画編集者 岩井っスの日記』2023年、P160
*8:ユリイカ 2017年11月臨時増刊号 総特集◎志村貴子 ―『敷居の住人』『放浪息子』『青い花』から『淡島百景』、そして『こいいじ』へ
*9:https://dengekionline.com/feature/omura/
*10:編集長在任期間は2013年5月号から2019年4月号まで
*11:『ティアズマガジン75』「編集王に訊く:岩井好典(コミックビーム)」P38
*12:岩井好典『漫画編集者 岩井っスの日記』2023年、P283
*13:https://alu.jp/article/1jei8E7BZOosjmTqomec
*14:https://news.livedoor.com/article/detail/20463829/
*15:https://news.livedoor.com/article/detail/20463833/
*16:https://alu.jp/article/tEaYY1k69i6gKHEtSSJl
*17:https://dengekionline.com/feature/omura/
*18:岩井好典『漫画編集者 岩井っスの日記』2023年、P311
*19:https://dengekionline.com/articles/54407/
*20:月刊コミックビーム2015年12月号「祝!コミックビーム創刊20周年」、P4
*21:https://content.weeklychamp.com/interview/page29.html
*23:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1511/18/news118.html
*24:https://content.weeklychamp.com/interview/page29.html
*25:https://www.tokiwa-so.net/news/2642
*26:https://alu.jp/article/1jei8E7BZOosjmTqomec
*27:https://alu.jp/article/1jei8E7BZOosjmTqomec
*28:https://realsound.jp/book/2024/10/post-1801899.html
*29:大場渉・森薫・入江亜季『マンガの原理』KADOKAWA、2025年
*30:https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1303/04/news115.html
*31:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1610/13/news050.html
*32:在任期間は2019年5月号から2023年5月号まで
*33:https://natalie.mu/comic/pp/inboundcomic
*34:月刊コミックビーム2020年10月号「25周年記念スペシャル対談 カネコアツシ×三宅乱丈」
*35:就任は2023年6月号から