病名がつく症状とつかない症状の違いって何だろう?症状の重さではなくて、多分、病院に行ったかどうかじゃないかなと思います。この映画の中の松村北斗(山添)と上白石萌音(藤沢)は、病名をもつ地味なふつうの市民に見えて、改めて二人ともほんと演技うまいなと思います。でも、それなら、もっと本当に地味でふつうの、知名度の低い俳優が演じてもよかったのかな?彼らが演じることで、ときどき輝く彼らの時間の美しさがわかりやすくなるのかな。彼らが出ないと、この映画を見る人は少なくなっただろうか。
原因が解明されていようといまいと、急にヒステリックになる人は昔から身近にいたし、私も頭が破裂するくらい腹が立つことが昔はあった。パニック障害の話を聞くと、めちゃくちゃ軽いやつなら自分にも経験がある気がする、飛行機が離陸するときや証明写真を撮るときに、逃げ出したくなって体が震えたりした。ただ、私にはそういうのを抑える強い理性があっただけ。この二人のことは他人事という気がしないし、弱みが見える分人間らしく思えて、どちらかというと仲良くなりたいと思う、弱みを見せずに人を押さえつけようとする人たちよりも。そもそも私はこの映画を、病気を持つ人々のささやかな生活を描いたものではなく、下北とか地方都市とかで生活するナイーブな若い人たちの出会いと別れ、として見ました。
年長の子が幼い子たちの手を引いて歩くみたいに、何か苦手なことがある人に自分の手を貸すことができたら、そういうのが幸せなんだ。自分にある過剰な部分(おせっかい、誰かの役に立ちたい、暇を持て余してる)が居場所を持つことの幸せ。そういう当たり前のことがことさらすごいことのように扱われることがちょっと怖い。昔からあった、ちょっとした手助けを、自分の点数を上げようとする僭越で傲慢な行動だと中傷する人たちがいて、その人たちは、知らない人たちが遠くでやっている慈善活動とかをべた褒めしたりしてる。よいことは矮小化されて、わるいことは拡散される。
この映画が、病気の気の毒な人たちの映画、として見られることが早くなくなればいいのに、と思います。