自分が落ち着いた気持ちで見られるときをずっと見つくろっていて、今日は夜のレッスンが延期になってのんびり家でワインとか飲んでるので、これを逃すと次の機会は遠いと思って見ることにしました。
「多分そいつ、今ごろパフェでも食ってるよ。」って本があったっけ。その本は、誰かが言ったことで傷ついたとしても、言った相手は全然覚えてないんだから、言われたほうも気にするな。私はその本の帯にそう書いてあるのを見て、ちょっと戦慄した。(だから読んでないです。全然違う内容の本だったら申し訳ありません。)かつてデマを言いふらしてカップルの仲を引き裂いた人も、同僚の出世をはばんだ人も、今ごろ至福の時間を楽しんでいるのか。だからもう気にしてもしょうがない、って言われて、そっか、って考えるのをやめられるものなのか。つまりこの世界は、やったもの勝ちなのか。…根に持たずに忘れた振りでもしないと、被害者は一瞬も楽しい時間を作れないのはその通りだ。でも、被害者が被害を忘れようとすることと、加害者が被害者に無関心にパフェやガーデニングやすてきなインテリアを楽しむことは、やっぱり全然違う。
その考え方を1万倍の規模にしたらこの映画の世界になるのかもしれない。無関心、無神経。嫌いな人たちは悪い人たちで、自分たちはどちらかというと被害者で、真面目で純粋で、醜悪な人たちのいない清潔で美しい世界に暮らしている。そういう世界を作ろうとしている。ヘスとその家族はそう信じていた、あるいは思い込もうとしていたんだろうか。
わからないのは、この場所でこれほどの目にあってきたユダヤの人たちが、どうしてガザでドイツ人でもなくパレスチナを攻撃するのか。そのとき自分にとって利害関係のある、ちょっと弱そうで勝てそうなものを痛めつけるのか。
この映画の世界のなかでは、官僚的なだけのヘス本人より、傍若無人なのはヘス夫人のほうで、「落下の解剖学」につづいて難しい憎まれ役を演じきっているサンドラ・ヒュラーに敬意を感じます。
こういう切り口でこの題材の映画を作ったことが高く評価された、ってことなんだな。あえて、この映画そのものには感動とか驚きとかを入れ込まず、かなりとつとつとした映像にしてあります。この作り方なのに制作者の意図が手に取るようにわかるのは、アウシュビッツというコンテクストをこれだけの人たちが深く共有してるからなんだよな・・・。私が見ても「説明がなさすぎてわからない」と思う外国映画には、その国の人が見れば当然わかるような作品も多いのかもしれません。