交流センターで開催された地区の人権講演会に参加する。
「ハンセン病問題を考える~病みすてられた人びとからの問いかけ~」
講師は、高石伸人さん
高石 伸人(たかいし のぶと)師
九州龍谷短期大学教授。 1949年、福岡県筑穂町のお寺の三男に生まれる。龍谷大学文学部哲学科卒業後、同和保育所児童指導員、飯塚こども劇場専従職員を経て(社福)直方市社会福祉協議会にソーシャルワーカーとして勤務。そこで、“いのち・人権・平和”をキーワードにした「市民塾」や「車イスで街を歩く会」「福祉活動体験学校」「よこいと運動会」などの企画をはじめ、障害当事者や支援ボランティアの組織化、さらに全盲児T君の「普通」校就学、専従手話通訳者の市役所配置などの運動にも取り組む。
かたわら1986年から、自宅敷地内に「障害者」と呼ばれる隣人たちと共に、「障害者地域活動センター・虫の家」を設立。チャランポランな日々の中で、「障害者」の生活支援を中心に「少数者」の日々にこだわりながら、時には人間を含むすべての“いのち”の平等な尊厳を実現する夢にうなされている。
1997年10月から九州龍谷短期大学教員に転職して、「障害者福祉論」「地域福祉論」などの授業を担当。
○共著に『仏教における共生の思想』(平楽寺書店)、主な論文に「証言:『ライ予防法』を生きて」「閉塞する死~『商品化社会』の精神に関する一考察」「『住民主体』原則のアポリア」などがある。福岡県鞍手郡小竹町在住。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~sinjouji/youkou/youkou-right.htmより
飯塚市のおとなり、小竹町に「杉野ハンセン病資料室」がある。
講師の高石さんは、ここの事務局長。
国立療養所の入所者、杉野夫婦との出会いをきっかけに開設した私設資料室。
この資料室の存在すら知らなかった。
今日の講演会は、この杉野さんをはじめ、高石さんが全国の療養所を訪ねて交流を深めた人々の、それぞれの人生についてのおはなしだった。
生まれた都道府県とは全く違う場所の療養所に入所したこと。
家族を守るために、全く別の名前で生きてきたこと。
入所前の学校で教師から受けた差別的言動の数々、その生々しさ。
隔離のその先の懲戒検束と監禁室、重監房について。
1956年のローマ国際会議において「すべての差別法は撤廃されるべき」と決議された年に、杉野さんの妻が入所したということ。
亡くなっても故郷に帰ることができずにいること、療養所内にあるハンセン病患者の納骨堂が、共生を否定された患者たちの象徴であるということ。
初めての国立療養所「長島愛生園」は、患者が強制労働させられて建てられた施設であるということ。
その園長であり絶対隔離主義を貫いた光田健輔が文化勲章を受章したということ。
隔離政策に反対し、ハンセン病ではなく多発性皮膚炎という診断名で診断書を書いた、小笠原登という皮膚科医がいたということ。
どちらの人物もハンセン病撲滅のために人生を捧げたということ。
などなど・・・。
ハンセン病に関する最低限の知識を持っているだけで、差別をしてはいけないよって頭で分かっているだけで、ほかのことは何も知らなかったし、知ろうとしていなかったということがよくわかった。
何も知らず何も考えずにいた私は、無かったことにしてきた、そして、居なかったことにしてきた、その歴史を肯定し、まちがった政策に加担して生きてきたんだなと、率直に感じた。
知るということ、知ろうとすること、そして、差別を助長し人権を侵害する政策にNOという態度を表わすこと、それが本当の意味での「差別をしない」ということなんだなと、いまさらではあるが、実感できた。
長く療養所で生きて来られた方が、ごく当たり前の生活を送ろうとしても、数々の誹謗中傷が届けられるそうだ。
それらの多くは、自分の価値観や倫理観を絶対視した他者への攻撃であり、自分ファーストだとか、自国ファーストが叫ばれる今の世の中となんとなく似ているような気がして、恐ろしく感じてしまった。
1時間程度の講演だったけれど、たくさんのことに気付かされる講演内容だった。