前回のちょっと続き?みたいな話でもあるんだけど、高齢で妊活していると、どうしてもそういう話が気になってくる。
最近アメブロで「子育て」カテゴリーで上位になっているブログ、リンクするのははばかられるので気になる方は検索してみてもらえればすぐ出ると思うが、端的に書くと「全盲全聾経管栄養医ケア児の手術を拒否し自然に任せることを要望しているが現代の日本ではそれが許されない」という話を実子・リアルタイムで書いてくれている方がいる。
生まれたら、なんとしても生かさなければならない。手術の同意書はあるが書かなければ手術されないわけでもなく、お金も払い続ける必要がある。
聞いたことはあったがやはり当事者のいる世界は壮絶だなと思う。
重度の子の場合積極的治療をしたくないと考える方、いままでもいたと思うんだけど、なかなかTwitterやブログ等でも見かけないなというのは実は前から気になっていた。
そもそもの全体数が少ないというのもあるんだろうけど、医療的ケア児の治療やバギーでの生活・家庭内の医療的手技を頑張っている人・障害の「行動」に悩まされている人はいても、「そもそも育児しない、連れて帰らない、手術に同意しかねる」ことを発信する人ってなかなかその中でもいないものだなと思う。(それはそうか…)
「産後病院に置き去りにされる障害児もいる」「連絡取れなくなる親がいる」みたいなツイートもみかけ、ああやっぱり一定数いるはずだよね、と逆に納得した。
前もチラッと書いたことあるかもしれないけど、私もわりと共感するところがあって。(実際そうなったとして置き去りにはしないだろうけど)
優生思想は危険だと思いつつ、数千万かけて、家族なりが24時間介護して、治る見込みのない重心時を「生かし続ける」ことって、本当に本人にとっての幸せ・人権保護になってるのか、家族の人権はどこいったのか、というのはキラキラコーティングされたTVのドキュメンタリーだけをみても思ったりする。
ブログ内の、「哺乳拒否や自己抜管は生きたくないという本人の意思表示なのでは」というのは考えさせられる。たしかに本人には死ぬ権利もない。
「連れて帰って自宅で自然に看取りたい」とも書かれていて、それってひとつの愛ではないかな、とも思った。
もはや何を信じるかの宗教宗派の世界にも感じる。
その状態で生き続けることが幸せであり人権である派と、自然の摂理通りが幸せであり人権である派。
生まれる家が違えば生きるか死ぬかも違うのは世界的にもそうだし、家族が本当に心から24時間お世話したい、お金もかけたい、それが生き甲斐、ならまぁやればいいけど(それも前書いた通り補助は金額で切るべきとも思うけど)、諦める選択肢、残してもいいんじゃないかなとは思う。
Twitterでだれかが「子供の世話は家庭内で、間引きも家庭内の責任で」という古来の価値観と、「子供も個人として生きる権利が尊重され障害などがあれば社会で面倒をみる」という西洋的な価値観が悪魔合体して「家庭内だけでなにがなんでも子供の生きる権利を守れ」になっていて無理がある、みたいなことを言っていて、なるほどなぁと思ったりした。
現代間引くわけにはいかんけど、家族の時間とお金全部遣ってでも手術てんこもりでとにかく生かせ、障害児を産んだ親の責任、産む選択をしたのは親だろ、はさすがにどうなんだろう。
障害も、強度行動障害とか、どうにもならなくて力も強くなって、親は老いていき、きょうだいは加害されたり進路に支障が出たり。
少し前に「子供を殺してくださいという親たち」って漫画も読んだけど(そしてあれは特性に加え親側の育児に問題があるケースが多かったけど)どうにもならないことってあると思うんだよね。
そういうの、根本的に「もう、仕方ない、諦めよう」って積極的治療をやめる・薬を使う・施設を充実させる、つまり親が「手放す」選択肢、あってもいいんじゃないかなと。
それも「もう手放したら会えません!」「子を捨てた親!!」みたいなゼロヒャクじゃなくて、いい距離を(保ちたい人は)保つ、みたいな。(そううまくはいかないか?)
年齢に関わらず、自分で食べられなくなったらそれは寿命(一時的にではなく回復の見込みなく)、というのは昔の考え方過ぎるかな。
そしてこういうこと考えてるうちは妊活とかしちゃいけないのかな。(しかも高齢で)
Twitterとかみてると延々こういう話でレスバが繰り広げられていて情緒が忙しい。(離れるべき)
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