*7月21日のブログ
まだ読み終わっていないのに アーティフ・アブー・サイフ著書 中野真紀子訳
【ガザ日記】を早く紹介したくてブログに載せました。
*8月15日のブログは
岡真理著書 【ガザとは何か】と金沢美術工芸大学での岡真理さんの緊急講義の
様子を載せました。
*9月16日 我が家は後期高齢者の二人の暮らし の最後に
ようやく【ガザ日記】を読み終えましたと 記したのです。
その時は 付箋をしてある箇所を ブログに載せたい気持ちはあるのですが~~
なかなか書けずにいたのです。
今日 クローズアップ現代を見て書かなければ・・・
読み終えた者として・・(作者が体験している日記なので読み進めるのは大変でした)

⁂ 12月10日(日曜日)
ニュースはもはや、追いかけるべき受容性を失った。
死は常態化し、待つことも常態化した。
懸念も常態化した。
私たちは一日中何もしない。今日は昨日のコピーであり、明日も同じであろう。
今日は何日かも忘れてしまう。
戦争が何日続いているかを数えるのもやめてしまう~~
⁂ 12月17日(日曜日)
ガザは見捨てられた。
誰も気にしていない。
私たちは毎日、現地で数多くの虐殺が行なわれ、民間人が殺されていると聞くのに
誰もそれを報告さえしない。
残念なことに、ガザ市と北部から決して離れてはいけないはずの二つのグループの
人々が真っ先に逃げ出した。
ジャーナリストと国際機関のことだ。
ジーナリストたちが南へ向かったとき、彼らが後に残してきたのは、
すぐに引き金を引きたがる集団虐殺モードの若いイスラエル兵が、見張りも、
監視もされないままに最低の振る舞いをする街だ。
初期の数週間は、ジャーナリストたちはみな、主要な病院に詰めて仕事をしていた
いわゆる「現場から」取材していたのはごく少数だった。
彼らが南へ逃げた後は、「市民ジャーナリスト」だけが自分の携帯電話で撮影した
画像を発信していたが、彼らはもちろん機動力も取材力も限られている。
確かに、
北部を去る前にすべてのジャーナリストが支払った犠牲とリスク、
彼らがどれだけ苦しんだかを思い出すことは重要だ。
だが、真実は彼らとともに去ったのだろうか?
今はラファで、すべての記者が町の西部にあるクウェート病院に拠点を置いている
それは理解できる。
記者たちは仕事をしている時は安全でいたいのだ。
しかし、仕事をする「代わり」に、安全でいようとするのは違う。
国際機関はといえば、
ジャーナリストたちよりも前に北部を離れた。
赤十字がガザ市の事務所から撤退した日のことを覚えている。
戦争の第二週のことだった。
私たちはプレスハウスから通りに出て、赤十字の車両が列をつくって
アル=シャハーダ通りにある事務所を出ていくのを見た。
彼らは、海外からのスタッフだけでなく、現地採用の職員とその家族も全員避難
させた。~~~
⁂ 12月30日(土曜日)
戦争が始まって八四日目の昨日の朝、
私は自分とヤーセルの名前が出国可能者のリストに含まれていることを知らされた
それは極めて唐突な出来事だった。
正午には、ラファ検問所に来ていた。
国境ゲートの係員が私を前に呼び出し、何番目かと尋ねた。
とてもゆっくり走るバスに乗って横断した。
エジプト側の建物の広場でたった二時間ほど過ごした後 エジプト国境を通過した
エジプト側で戸外に出ると、空は曇っていた。
だが私は北東をを振り返らずにはいられなかった。ガザ地区の方向、故郷の方向を
そこでは何度も命を落としかけたが、
どこかに私の魂が宿っている場所があるとすれば、今もそこがその場所だ。
ヤーセルは出発することに舞い上がっていた。
「父さんだって、そうでしょう?」と聞かれて、答えに窮した。
もちろん、ほっとしている。何とか生き延びた―
私が何か英雄的な行為をしたおかげではなく、運が良かっただけなのだが。
まったくの偶然だ。
生き延びたことには義務がともなう。
この物語を語れねばならない。
しかし、そのことは同時に、なぜ自分が生き残り、他の者が生き残れなかったのか
が最終的に理解できないことも明らかにする。
毎日、数百人の人々が出国する。二重国籍の者、負傷者とその同伴者、
留学生ビザを持つ者など。
でも、それ以外の人たちは、なぜなんだろう?
西へ向かうタクシーの中で、私はぼんやりとこの八四日間の惨劇と恐怖を振り返っ
ていた。
残してきた人たちのことを考えていると、いきなり、
彼らを見捨てたことを恥じる気持ちに襲われた―
父、兄弟姉妹、義理の親族、甥や姪たち。
自分は本当に去らねばならなかったのだろうか、と自問する。
それは、北部を離れるときに経験したのと同じ反省だった。
私は、この間ずっと一緒に過ごしてきた者たちを裏切ったのだろうか?
戦争が終わるまで残るべきだったのだろうか?
私は四六日間を北部で過ごし、親しい同僚たちが毎日殺されていくのを
目の当たりにした。
その後、三十日以上をテントの中で暮らし、冷たい砂の上にマットレスを敷いて
寝た。
ハンナは、まだ国境が開かれていた戦争の最初の数日のうちに、私はガザを離れる
べきだったと思っている。
私は今、最後まで残るべきだったと思っている。
これは亡命者のジレンマだ。
ここにいれば苦しみ、
ここを去っても苦しむ。~~~
読むのに時間がかかったのは
読み進めていると心が萎えてしまうのです。
ガザ地区に住んでいる子供達その家族の日常は
想像を絶する環境であり、天井のない監獄
そのものです。
この【ガザ日記】は2023年10月7日から
書き始められ~~12月30日まで綴られています。
この戦火は
一年も続くとは思ってはいなかった
ことでしょう。
それが・・・
それどころか 広がっています。
為政者に伝えたいです。
国際法を守ってください。守らさせてください。
イスラエルへの援助はしないで下さい。
*10月13日 NHKペシャルで【ガザ 絶望から生まれた詩】が放映されていました。
hitokotoさんもブログに載せています。
【ガザ日記】の序文 (忘れない者の痛み)の 詩に心が動き 付箋はしてあったの
ですが、ブログには 載せなかったのです。
でも、やっぱり、備忘録として載せたいと思い記します。
***ギリシャの詩人 イオルゴス・セフェリスは、自分の国がナチスに占領された時
「最後の停車駅」という詩の中でこう書いた。
*私たちの心は、殺された友人たちの原生林だ
私がおとぎ話やたとえ話で語りかけるとすれば
それは、君にはそのほうが聞きやすいからだ
そして恐怖は語られない
あまりにも生々しいからだ
無言で、はかないものだからだ
忘れない者の痛みは
日ごと眠りの中に滴り落ちる
***リファアトは、ジョン・ダン「16~17世紀のイングランドの詩人」の研究で
博士号を取った作家で、この11月に公開した
【もし私が死なねばならぬのなら】という詩が、彼の最後の証言となり、
遺言となった。この詩は30以上の言語に翻訳され、3000万回も読まれた。
*もし私が死なねばならぬのなら
君は生きなければならない
私のことを語るためだ
そして私のものを売って
一片の布と
糸を買ってほしい
(長い尾のついた白い凧を作るためだ)
ガザのどこかで子どもが
天を仰いで父親を待つ
炎の中で旅立った父親は
誰にも別れを告げなかった
自分の肉体にさえも
自分自身にさえも
君の作った私の凧が
空に舞い上がるのを見て
その子は一瞬、そこに天使がいる
愛を戻してくれると思うだろう
もし私が死ななければならぬのなら
それが希望を生み出すように
それを物語にしてほしい
【ガザ日記】の作者 アーティフは彼の観察や省察を、イスラエルによるインターネッ
トや電話サービスの遮断のために送信が困難なことも多い中で断固として、ワシントン
ポスト紙やニューヨークタイムス紙やネイション誌などの媒体で発表し続けた。
このブログには
元 ひめゆり学徒隊の生存者で証言員をされている方のお話~~
【なぜ 自分があの戦争で生きることになったのか解らない。】と
仰っていました。