ぞわぞわしてくる。この本に書かれているのは、ある地方出身&在住の精神科医が見てきた、この日本という国の数十年だ。
そしてこの本は、熊代氏の血で書かれている。
この本の著者は熊代亨氏という精神科医で、精神医学や社会学、そしてオタクとしての視点から、現代人や現代社会の病理を考察され続けています。同時に熊代氏はブログ「シロクマの屑籠」を長年運営されています。
初著書「ロスジェネ心理学」が2012年に発売される前から、私は「シロクマの屑籠」を読んでいました。というか熊代氏がブログを書かれる前に運営されていた「汎的適応技術研究」を私は学生時代に読んでいた記憶があるので、もう熊代氏の文章を読み続けてそろそろ20年くらいになりそうな気が。
本書は熊代氏の人生を振り返るエッセイであり、そのクロニクルを通じて現代日本社会・文化・ネットの肌触りを今一度改めて思い返す内容になっています。
個人史を通じて1980年代から2020年代を概観すると同時に、これらの時代の雰囲気、風のにおいと質感、社会からの視線、緊張度……そういったものを熊代氏は描写しようとしています。
この本は熊代氏の視点から「私が見た風景はこうだった」を描写する本だ。NUMBER GIRL/ZAZEN BOYS向井秀徳の言葉を借りるなら「俺の目玉が見る景色」であり、かつ熊代氏が繰り返してきた「自問自答」の血の軋みが、うめき声が聞こえてくる本です。
はっきり言って、読んでいてぞわぞわしてくる。興奮や熱狂ではない。私はこれを読んでいて、とても落ち着けない。
もちろんのことながら、熊代氏が今苦しくて、そんなおれの苦しみをわかってくれ!なんて内心吐露の書き方の本では一切ない。
それでも熊代氏という人間が1980年代、90年代、ゼロ年代、テン年代と日々を、歴史を重ねてきて、その折々で熊代氏が実際に「喰らって」きた様々の苦しみ、痛みが、文章の中にこだましている。でもそれをロスジェネ・氷河期世代の放つ怨嗟の声、と直接的に表現するのは、はばかられる。
なぜならこの血の声は、熊代氏個人の言葉だからだ。本書で熊代氏は最後まで「世代の代弁者」的な振る舞いを見せなかった。おそらく、熊代氏は世代の人間として語るべきことはあれど、軽々しく代弁者ヅラをすることの醜悪さもわかっている。しかし熊代氏が語る内容と、声の中に、確実にロスジェネ・氷河期世代の怨嗟はこだましている…。
最近、私自身にとあることがあって、「言葉遊びをしていてはだめなのだ、空理空論は意味がないのだ」と強く思うようになった。前々からそう、うっすら思ってきたが、改めてつくづく思うようになった。血の通った言葉でないとだめなのだ。
たとえば、鋭く理論や理屈でもって問題点を穿つことは出来る。同時に、過去のデータを引っ張ってきて確実に論敵の急所をしとめることも出来る。長く本を読み、文章を書いていればそういうことは出来るようになる。やがて思い付きから、試論をもてあそぶようになる…。言葉が言葉を重ねる空中楼閣。
でも、本当に大事な言葉というのは、血の通った言葉なのだと思う。自分が生きてきて負った傷や軋み、その血が放つ言葉でしか、人の心は動かせない。
「そんなことはない!正論の鋭い攻撃力も人の心を動かしうる!」という反論が聞こえてきそうだ。しかし私は見てきた。その妙に顔が赤い即レス的な反論には、m9(^Д^)プギャーにも通じるような自信の無さがこだましていた…。そして私もそのような即レスをかつてしてきたのだ…。
この本は読んでいてしんどい。ぞわぞわする。正直熊代氏の過去作「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」より個人的にしんどいのはなぜだ。
……決まっている。読書中、私自身の半生を逐一思い返すからだ。
明らかに発達障害だったが、その言葉(定義)がなかった私の幼少期。
学生時代、私自身がどうしようもなく幼く、キモオタだったころ。
いろいろな環境に耐えて耐えて、結果精神が歪んでしまい、病院のお世話になったころ。
大学院を退学し、何者かになろうとして文章を書き重ねて、結局何者にもなれなかったころ。
誰かを羨んで、嫉妬して、その癖自分では何一つ手を動かさずに作品を作らなかったころ。
迷惑をかけた人のこと、決裂した人のこと。
その時リアルタイムに見てきた作品、文章、ホームページ…。
人の目、世間からの圧迫妄想、そしていつまで経っても心からの自信が持てない自分自身への怨嗟…。
いろいろなものを思い返す。そして何故我々……いや、代弁者はよそう。なぜ「私は」、様々なものを羨み、憧れ、崇拝し、そして嫉妬し、抗弁し、虚勢を張っていたのか。
私は、自分自身に何もない、と思っていた。誰かの意見を引用することには長けていた。それで自分自身を守っていた。でもこういう姿っていうのは他人からしたら透けて見えるもので。その度に顔は赤く紅潮し、声色は強くなり、m9(^Д^)プギャーがこだまするのだ。…それが何になる? 自傷しているようなものではないか。
ところで、私は熊代氏の10歳下になる(1985年生)。なので、同じものを見ていても、ルートは違うように思える。例えば熊代氏が東浩紀「動物化するポストモダン」から一歩進めてボードリヤールを通じてポスト構造主義に入っていったこと。
私も学生時代「動ポモ」を読んだが、その流れで私は文芸誌「ファウスト」を読んでいた。読んでいたというより、同時代の才能の煌めきに対し、めっちゃ嫉妬していた。西尾維新氏にも佐藤友哉氏にも奈須きのこ氏にも。そして「ファウスト」の東浩紀氏の連載は「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」という本になった。私はそれらの著作に対して、「フーンこれが今の創作シーンなのね軽薄な…(チラッチラッ」と冷静に見ているふりをして、内実めっちゃ嫉妬していた。そして自分自身がどんどん不自由になっていっているように感じていた。あまりに辛くなってきたので「ファウスト」は竜騎士07氏を特集する頃になったらブックオフに売った。どんどん自分が現代社会からズレていっているように思えた。でもそのズレは心地よいものではなかった。嫉妬ですからね…。
そういう「現代創作シーンの煌めき」への嫉妬があったから、それよりもちょっと「落ち着いている」ように見えたポスト構造主義やそれ以前の哲学の著作を私は読むようになった。そうすれば心が泡立てられずにすむから……でも正直ドゥルーズ=ガタリもデリダもヴィトゲンシュタインも、読んだはいいもののほとんど理解できませんでした。人間同士のコミュニケーションのやり方について、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論のドライな見方は凄く助かった記憶があるけども。
まぁこれは例のひとつであるが、そんな風にして同じものをみていても熊代氏と私とで、世代の違いや能力や状況の違いもあって、ルートは違うということで。それでも…それでも熊代氏のこのエッセイで描かれる風景の、風のにおい、質感、緊張度、っていうものは、とても覚えがある。そりゃそうです。同じものをみていたのですから。
地方社会の泥臭い人間付き合い、そして「この程度しかないんかい!」的な常時文化欠乏症。
地方大学のミニマムな充足感と、都会への意識。あるいは泥臭い田舎からの脱出願望。
「オタク」なるものへの差別の時代の空気感。同時並行しての精神病理的世界観。
インターネット。ポストモダン。
……とても、とても覚えのあるものばかりで。そしてその「覚えのある」とは、「私も傷を負ってきた」というのと同義で。
だから私は熊代氏がこの本を書くにあたって流してきた「血」を感じることが出来る。それはどこまで正確かわからないけども、ともかくこの本には血がある。なにか巨大なものに阻まれて、生傷を負い、しとどに流れた血の存在が、こだまのように聞き取れる。
これはあんまり言ってはいけないことなのかもしれないけど、本書には熊代氏が親しんできた作品や、オタクライフの断片が描かれている場面がありますが、本書ではそれらの充実感や楽しさについてはあまり描かれていません。
もちろん熊代氏はアニメ愛好家にしてゲーマー(とくにSTGのシューターです)として様々な喜びを、アニメやゲームから得てきたことは疑いようがありません。ただ、この本では「おれの魂の作品の喜びを聞け!」感がとても薄い。様々な作品が、そしてインターネットが熊代氏にとって「あって良かった」ことは疑いないし、実際熊代氏を救ってきたのだけれども、本書ではそれよりも、もっとヒリヒリした空気感、緊張度のようなものを色濃く感じさせる。それは「時代の風景を描く」という本書のテーマからしたら、「作品やオタクライフの個人的なたのしさ」にページを割くことは、おそらく本筋からズレることとなる…という判断なのかな、と思う。その判断は私は妥当だと思う。
というか、個人的な喜びを語るにしては、あまりにあの氷河期世代・ロスジェネ世代の視てきた風景の中にある巨大な「抑圧してくるもの」の存在感が大きかったのだろう、と私は思う。その巨大な抑圧は、大きいし、遍在しているし。希望があるんだかないんだかよくわからないし…そして今現在からしたら、2020年の現代社会の抑圧・鬱屈・相互監視・神経戦状態の萌芽はすでに蒔かれていたといえてしまうし。「歴史」だなぁ、と思うわけです。
でも、本書は絶対にあってよかった、って思う。読んでてしんどいけども、このしんどさは目をそむけたくない。というか、私もあの時代を生きてきた人間なわけですから、汲み取れるものは汲み取りたい。
時代が経るにつて、だんだん10年、15年、20年前が懐かしくなってきます。それくらい前っつったらアレですよ。「けいおん!」ブームだったころです。正直今はもうこれくらいの経年ですら懐かしい。でも、あのころはあのころで私も、熊代氏も、そして皆も、必死だったわけです。その必死さは覚えているよ。スマホ以前で、もう新たな「伝説」なんて生まれないのかな、とぼんやり閉塞感もあって。今にして思えば、まだあのころは微温的だったともいえるけれども。そういうあの時代の空気感を思い出す。
そうやってしっかり空気感を思い出すことは、なかなか出来ることじゃない。とくにネガティヴな様相もしっかり描こう、とすると余計に。本書で熊代氏は、世代の安易な一体感とかノスタルジーとかに頼らず、あの時代の空気感に向き合って、記録を残した。それは過去を断罪したり、嘲笑したりするのとは正反対です。むしろ、より大きな意味で過去を肯定……少し大仰な言い方を許してもらえれば、過去と、その過去を生きてきた自身、そして潰えていった同時代の者たちを「鎮魂」することとも言えると思う。
なんてったってこの本、ノスタルジーの甘味ってものがないのです。このブログでは散々Lo-fi HiphopやVaporwaveを皮切りに、ノスタルジー表現についてめっちゃ愛好してきました。なので言えるのですが、本書はそういうノスタルジーのノイズ交じりの追憶の甘美さってものが、「ない」!これは断言します。
本書の大事なところっていうのは、ノスタルジーに浸って現実逃避、ではない。過去をきちんと見据える。あくまで個人の視点からだけれども、確かに在ったことをきちんと記録する。そうして考えていくことが、確実に未来を少し良くしていくことだと固く信じて。「あいつら」を、そして自分自身を、無駄死になんかさせないぞ、と。何より、自分が見てきたものは無駄なんかじゃなかったんだ、と。
何回もこの感想記事では「血」という表現を出してきました。本書の書き方は、苦痛を吐露するものではありません。でも、熊代氏の抱いてきた苦痛の一端が垣間見える内容です。その苦痛を経て、血でもって書かれているからこそ、説得力があり、この著者は誠実に書いている、と信じられる。
私は熊代氏の血を感じながら読みました。しかし…ぞわぞわとしんどいながらも、この本の「血」に対して嫌悪感や拒絶反応を示すことはなかった。
私はこれからも、熊代氏の本を読んでいこう、と改めて思いました。この10年間、熊代氏の著作が発表されたら無条件に読む、と方針を定めてきました(過去のブログ記事でもそのように書いています)。今後も私は、熊代氏の文章を読んでいきます。ありがとうございました。
過去の熊代氏著作への感想
「「若作りうつ」社会」の感想と個人的重い思い - 残響の足りない部屋
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清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3 - 残響の足りない部屋