映画を観てきました。
「映画を観てきました」となんだか古風な表現をしましたのは、この映画の作風が純文学的なものであるからです。心地よい100分の映写時間のあと「映画を観たなぁ」という感覚になりました。
まぁ今時、純文学だエンタメだ云々、という区分も不要な時代でしょう。ただこの作品が「ストーリーや感情のアップダウンの激しいエンターテイメント映画」とはずいぶん距離のある作品だというのも事実です。
とはいっても、小難しい作品ではありません。それでいて凄い静謐ということでもなく…「動」よりは「静」に寄った作品ではあります。しかしもっと的確な言葉があるような…。そして私はもっと言いたいことがあるような…。
というわけで、この日記ブログでいろいろ書きながら、考えてみます。なお、記事文章はストーリーの流れに沿ってはいません。
パブリック・プレッシャー/公的抑圧
人の存在に「色」が見える主人公・トツ子です。難しい神経学的表現だと「共感覚」ってやつですね。この感覚が本作ではファンタジーとして描かれることはありません。人によっては現実にあります。私も数字に色や形が見える。3は黄緑色のカエルだし。
もちろんトツ子のこの感覚があったから、バンド「しろねこ堂」メンバー…作永きみと影平ルイと出逢い、バンドを結成出来ました。本作で一番強引だったシーンですね。トツ子が二人に色を見出さなければ、バンドの結成はあり得ませんでした。無論のこと、この作品においてバンドを結成し、彼女らが音楽活動をするようになっていったことは、寿ぐべきことです。バンド「しろねこ堂」はこの作品世界の祝福と言っていい。
にも拘わらず、トツ子の「色が見える」共感覚は、この世において素晴らしい才能(ギフテッド)とは見なされません。迫害こそされないまでも、周囲の人からは「なんかちょっと変な子」と見られます。心やさしいトツ子は社会に対して憎悪を向けることはないですが、トツ子は世界に対してちょっと違和感…「なんだか自然に受け入れてもらえてない」感覚を覚え続けています。
この、社会・世界に「なんだか自然に受け入れてもらえてない」感覚は、きみもルイも共通して抱いています。きみは、トツ子よりもっとソリッドに。「期待(パブリックイメージ)に応えることが出来ない」という。ルイは、家業と音楽活動の間をなんとか折り合いつけようとしています。より穏健策とはいえますが、違和感は覚えています。そもそもこの作品で一番コミュニケーション不全を抱えていて、親からもそれを心配されていたのはルイです。彼のどことなくアンドロジナス的(両性的)なパーソナリティも、社会・世界とこれまで上手くいかなかったことを想像させます。
アウトサイダー、とまで激烈なものではないまでも、作中でトツ子・きみ・ルイの三人=しろねこ堂は、「はじかれた者たち」としてのゆるやかな連帯感でバンドを組み、作曲活動に励みます。それを観ていて私は、あの古い教会での練習や合宿が、彼女らにとってのアジール(聖域)のように見えました。
しかし考えれば本来トツ子のミッション系女学校の聖堂や寮こそ、アジールになってしかるべきとこなのに、トツ子はそこに心安らかな聖域を見出しきれていないのですね。きみに至っては、耐えきれずに退学しています。この作品において、ミッション系女学校のキリスト教的なるものは、どちらかといえば「抑圧」に属するもののように読めました。
ただ、キリスト教的なるものが、トツ子やきみにとって悪しき抑圧オンリーの存在か、といったら、そうは言いきれなくて。トツ子が序盤から二ーバーの祈りを何度も口にして祈るのは、トツ子がこの祈りの視座に対して「ここから汲むべきものがあるかもしれない」と思っているからです。きみが「聖歌」に触れていたことも同じと思います。
この作品におてキリスト教的なるものは、何らかの規範…というかある種の深層的な影響としての「色彩」をもたらすものであります。そしてさらに、問題は彼女たちがそれをどう「自分ごととしていく」か、ということも語られます。何が善で何が悪か、という単純な善悪二元論はこの作品にはありません。色に善も悪もないのと同じです。彼女たちは世界のいろいろな物を見て触れて感じて、そこから何を汲み取り、自分ごととしていくか。そしてそれには時間がかかります。賢しらにすぐ答えなんて出るものではない。
イクトゥスはかくれざるを(SAKANA-Action is hidden)

さかな。
キリスト教のことでいうと、やっぱりこのことについては書きたくなって。イクトゥス(魚のシンボル)は、古代キリスト教で用いられた隠れシンボルのことです。キリスト教は初期において迫害されておりまして、信仰を公に出来ない状況なので、キリスト者同士がお互いを確認するために用いられました。
劇中、制服を通してこのシンボルが何回も目に付くものですから、しろねこ堂→テクノポップ→サカナクション、という連想もあって、やっぱりこれ意図的に仕込んでいるんじゃないの?と想像(妄想)たくましくしましたw
しかしまぁ…この「隠れる」というモチーフは、本作において重要なものです。トツ子は共感覚を隠しますし、中盤において(ネタバレ)を(ネタバーレ)しますし。きみも祖母に退学を告げられず、ルイも自分の音楽活動を母に告げられず。それらはボタンの掛け違い的な側面もあって、彼女らが悪いことをしようとしてやった「隠し」ではないのは確かなのですが。
それからそもそも、彼女たちの「なんだか自然に受け入れてもらえてない」感覚は、社会・世界から「隠れる」ような行動・思考になっていきがちでした。彼女たちは「はじかれた」者たちでしたが、彼女たち自身も社会・世界とほどほどに融和はしてますが、それでも芯の部分では居心地悪そうにしています。
誰が悪いってわけでもないのですけどね。それでも、この作品の話の最初では、「こいつら(3人)大丈夫だろうか…」と思ってしまいました。私は。
映画公式HPでも、山田監督がこう書いています。
思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。
すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほど良く考えているな、と思うことが多いです。
「自分と他人(社会)」の距離の取り方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。
表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。
ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。
彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。
「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。(山田尚子監督の企画書より)
「きみの色」公式サイト「Message」より
監督の、この若い人の捉え方、僭越ながら私「わかるなぁ…」と思ったりします。今の社会って神経戦すぎますもの。しかもその神経度合いは年々深まっている。そして一度センシティヴに神経が研ぎ澄まされていったら、強迫的になっていって「緩まる」ことはない。大変ですよ。
清潔で緊張する社会の中で、自分を保ちながら、社会・世界と融和する……。社会に受け入れてもらって「いいね!」や承認欲求を爆稼ぎする、っていうことではもちろんない。自分が好きなものを通して、世界と握手する。そのついでに社会とまぁ良い感じの距離を構築する。自分自身と仲良く。そして世界と仲良くする……。難しいですね。
彼女たちはもう大丈夫だ。
音楽、バンドの話をしましょう。
ギター・ボーカル:作永きみ。
キーボード:日暮トツ子。
キーボード/オルガン、テルミン:影平ルイ。
この三人のバンド「しろねこ堂」。
YMOやサカナクション直系のテクノポップやぁ~!
まぁもうこのブログ記事のタイトルや記事中にそういうワードは散りばめてあるので今更ですが。
しろねこ堂の音楽は変則的なバンド編成ながら、ポップスとしてとても楽しく。かつシリアスに聞かせるナンバーもあり(これはテクノポップではない)。
で、私はこのトツ子作詞作曲・しろねこ堂編曲の「水金地火木土天アーメン」がとても好きなのです。リフにしろシンセ音にしろハンドクラップにしろ。
とにかくこの曲、ラストのライヴシーンでバーンと演奏されるのですが、背後の宗教画(ステンドグラス?)と相まって、私は凱歌のように聞こえました。世界に対する凱歌です。
恨みではない。自己否定でもない。仲間とバンドをし、音楽をする喜びがここにある。いいね!獲得合戦でもない。承認欲求モンスターでもない!ただ音楽をする。ただバンドを演る。その喜びです。
ここにおいてもはや彼女たちは自分自身とも世界とも和解が出来ています。アーメン(キリスト教的なるもの)とさえ和解が出来ている!
でもその和解には時間がかかった。ひとつひとつのエピソードを積み上げる必要があった。それこそルイが町のリサイクルショップで機材を買い集めるところから。
※余談:それはそうとこの映画、楽器マニアは見て楽しいですね。CASIO SA-46(いつも紙袋に入っている緑色の小型キーボード)、私持ってたよ。っていうかこのキーボード使い勝手が良すぎる。レコーディング現場やラジオ収録現場とか、いろんな場所で見るぞ。またきみの小型マルチエフェクターはZOOMのだし、ルイ君Cubaseユーザーなんだ、とか。そもそもきみのリッケンバッカーだってサカナクション山口が使…(以下略
思えばルイのメイン楽器・テルミンにしたって、まずもって発音からして難しい代物です。ドレミ(普通の音程)を出すのだって難しい。
(以下は人間椅子・和嶋がテルミンの教えを受けているところ。この後和嶋はライヴでギターを弾きながらテルミンを使いこなすようになります)
しかし考えればこのテルミンの発音の難しさこそ、「世界との和解」を目指すメタファーにも思えてきます。なんとかして自分を調律・調整していく。それも、楽しくね。ルイはルイなりに自分を調律し、誠実に生きようとしています。そんなルイの姿にきみは「頑張れ」と言います。本当頑張ってほしい。そんな青年です。ラストのあの疾走が爽やかで、空に舞ったテープ、あれは「美しいものを観た」と私思いました。
この「美しいものを観た」という感覚は、覚えがあります。同じ山田尚子監督・吉田玲子脚本の「映画けいおん!」のラストでの、唯・澪・律・ムギが高校の屋上で走っていくシーンです。
あれはあんまり美しく、時間が止まったようで、天使から祝福されているようで、見ていてなんだか涅槃の気分さえ覚えました。それを今思い出しました。山田監督は「きみの色」でも変わっていない。人間が、瞬間を頑張って生きる姿の美しさ、その美を活写したいのだな、ということを改めて思いました。
ラストのライヴシーン、しろねこ堂の3曲。自分自身へと、世界への凱歌。その姿を見て、私は、トツ子、きみ、ルイの三人は、「彼女たちはもう大丈夫だ」と心から思えました。世界は色に満ちていて、彼女たちはそれを楽しみ、味わうことが出来る。自分自身の色だって同じように!
そして彼女たちしろねこ堂は今後もバンドを続けるのでしょう。そうして三つの色は交わっていきます。彼女たちのバンド、そしてバンドサウンドには魔法がかかっているのです。もう彼女たちは世界と敵対することはない。それでいいんです。
何か特別なことがあった、という話(プロット)の映画ではありません。でも、彼女たちにはこのバンドで過ごす時間が絶対に必要だった。そういう、彼女たちの時間を観ることが出来た。私が最初に純文学的映画、と言ったのはそういう意味です。彼女たちの時間は、色は、とても心地がよかった。そして彼女たちが世界と和解出来たことを私は喜び寿ぐ。
最後の最後でトツ子は踊ります。それもまた美しかった。彼女は幼いころのバレエの呪いから今完全に自由になっている! 思えば、「色を見ることが出来る」彼女の共感覚は、彼女にとって「完全絶対の呪い」でもなかったのかもしれません。むしろ彼女にとっては、「色」問題より、バレエの挫折の方がより直接的にキツい呪いだったのかしら?と思わせるところすらあります。単純ではない。そう、純文学と評すだけあって、そのあたり単純なキャラ造形ではありません。結構、三人の屈折というものを随所のディテールから読み解くことが出来る。
まぁ、そこはこれから何回も見返していけばいろいろ出てくるところです。それを観るのもまた良いでしょう。ともかく今は、良いものーー美しいものを観た、という気持ちです。有難うございました。
参考記事&音源
義実さんが楽しまれている姿を見て、私も観る気になりました。
この祈りの言葉は、アルコールや薬物の依存症回復プログラムでしばしば用いられることで知られています。
YMO。こういう風に人生を重ねたって良い。
シンセサイザーサウンドis so Love...(サカナクションのギタリストのギター&シンセひとり多重録音ライヴ演奏)
LAUSBUBの高校時代のライヴ。
CASIO SA-46はオルガンの音色が出しやすすぎると思いませんか?