第3部第8章8、であるが、もう、『パサージュ論』を見ながらじゃないとわからないなという思いでいっぱいになって、広げてみた。岩波現代文庫版、単行本版あるけれども、ひとまずは一番新しい岩波文庫版である。

その項目は、以下のようになる。

夢はKの束ですね。「夢の街と夢の家、未来の夢、人間学的ニヒリズム、ユング」のあたりかな。
ベンヤミンはこれまで概説してきた二重の夢の理論を少なくともパサージュ論の概要を完成した都市である一九三五年までには完成していたと主張している。
今までわからねー、わからねー言ってきたのは「二重の夢の理論」のことなんだと思う。このKの夢の束から、読んでいくと、
私が以下で提供しようとするのは、目覚めの技法についての試論なのである。つまりは、哀悼的想起の弁証法的転換あるいはそのコペルニクス的転回を認識しようとする試みである。
それは、おそらくマルクスからの引用で示されたテーゼの実践方法だということは明らかである。
意識の改革は、自分自身について夢を見ている状態から世界をして目覚めさせることにしか存しない。
『パサージュ論』のK群とN群から、バック=モースは引用している。少なくともこの節は、このK群、N群に示されたはずの「二重の夢の理論」を明らかにするものだろう。マルクスのいう「目覚め」の方法である。
なんか、とにかく、唯物的にモノを考えることで、今までぼんやりとしか考えてこなかったものが、下部構造によってある程度まで生活や思考様式が決定されてる、みたいなノリがわかることが夢から覚めることなんだとすると、ベンヤミンのいう「二重」って何だろう、ってなるよね。
ベンヤミンはN群、タイトルは「認識論に関して、進歩の理論」となっている最初の断片で、
われわれの関わっている分野では、認識は稲妻の閃光のようなものでしかない。テクストは稲妻の後に長く続く雷鳴である。
かーっこいい!
でも、その「長く続く雷鳴」を聞いても(バック=モースのテクスト)、全然稲妻の閃光を追体験できないんだけど。
アドルノも、このベンヤミンの夢理論について、あまり良い印象を持っていなかったようだ。もともとその理論は「弁証法のおとぎの国」というサブタイトルで、あまりに文学的な理論だったから。ただ、初期のベンヤミンの発想においては頭の硬いマルクス主義を超克したような契機があったので、アドルノはそれを評価したというらしいが。
マルクスにも夢の記述はある。ただ、マルクスの夢は、社会が持つ理想やあるべき状態への観念というものの比喩として読める。ベンヤミンの夢は、あるべき状態をめくらます夢と、夢から目覚めるためにぶつける肯定的な夢と、二つ夢がある気がした。
しばしば俗流のマルクス主義の理解として、下部構造=経済機構、上部構造=思想や文化、の二層を定め、上部構造は下部構造に規定され、その内容の反映である、として理解された。だから、下部構造の変革があれば、上部構造も必然的に変わると思われてきた。ベンヤミンは、こうした下部構造の特権化を相対化し、上部構造は下部構造の「表現」だとして理解した。「反映」と「表現」は異なる。目覚めるには「表現」としての「夢」に別の夢をぶつけ、その夢の表現の可能性を認識させることで下部構造の理解への人を導くことができると思ったのではないだろうか。
上部構造についてはグラムシの覇権(ヘゲモニー)論とかで、しばしばベンヤミンが参照されたし、表現における闘争の重要性は、ベンヤミンが最初日本で流行った時の1970年代的運動状況に合致していたのではないだろうか。
バック=モースは、このベンヤミンの夢理論を、まずブルジョワジーの分裂した二つの夢と解釈した。産業によって実現する未来としての夢と、未来に必然的に向かう加速を止めるための神話としての夢と。産業の進展は人々の生活水準を上げ、最終的に平等に近い形に推移するはずという目測と、そうなっては現在の関係が維持できないから維持するための神話を設定しなければならないというジレンマに置かれていることをベンヤミンは言ったと言っている。
ブルジョワジーから発される二つの夢をモンタージュして、神話から目覚める。それは、経済機構を眺めるのではなく、パサージュのような事物の中に二つのヴィジョンを見るということなのかもしれない。
ずいぶんと涼しくなった。寒いくらいだ。なんだか、色々急すぎて、追いついていかないね。