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ドラえもん・行為指針のジレンマ・なんだか難しいね ~『ベンヤミンとパサージュ論』を仕事しながら読む~ 57

結局『ベンヤミンとパサージュ論』の要諦は、パサージュ論という資料集に見えるテキストが何を読者に伝えようとしていたのか、ということに尽きるだろう。それはタイトルから「見ることの弁証法」を読者に仕掛けるものであるという結論がすでに与えられている。少なくとも読む前は仮説に過ぎなかった「見ることの弁証法」は、読んだあと、納得できる方法論として我々の中に沈殿する。

 

「見ることの弁証法」とバック=モースが提起しているものは、シュルレアリスムの方法に基づいた古い形象の弁証法モンタージュによる覚醒的観察である。現在のガラクタの中に、過去の夢を見てとり、その夢と現実をさらにぶつけることで、現実に機能している神話から身を引き剥がす…みたいな。

 

第三部第八章「5」は、その方法論が「おとぎ話」になぞらえられる、ということを説明している。

 

例えば、昭和の遊園地は、すでに過去の遺物だろう。例えば、川越のまるひろの上にあった屋上遊園地などは、昭和の集団的夢のモンタージュを引き出すのに、格好の題材かもしれない。もう、壊されたけど。浅草花やしきには行ったことはないが、これもある種の夢だ。小樽の水族館近くにある遊園地、あるいは那須ハイランドパークなども、ギリギリ昭和の夢と言えるかもしれない。

 

アトラクションが何を模しているかというと、飛行機、宇宙、船、科学技術によって豊かになるストーリーが組まれている。小生らが熱狂した『ドラえもん』もまた、猫と古い時代の名前の合いの子であり、科学技術の申し子で、猫のような愛嬌と江戸から明治にかかる精神性と、そして科学技術の応用によって、どんな冴えない少年も幸せになれるのだという予感と、冴えない少年がそれを過剰に使用することで訪れる結末とを合わせてみることで、人は科学技術の倫理的番人とならなければ、望んだ未来が訪れないことを示唆している。

 

正直、アトラクションだけから、集団的夢のモンタージュを引き出すのは、小生には無理で、遊園地とドラえもんの補助線を必要とした。ベンヤミンはよく、パサージュだけから引っ張り出すことができたな、と思ったけれど、ベンヤミンだって、パサージュとボードレールを必要としたから、やっぱりテーマパークとそこに乗っかる物語の二つが必要なんだろう。

 

ベンヤミンが、近代とは個人の意識が先鋭になって、集団的な夢は抑圧されていく過程だと理解していたのは、なんとなくわかった。その集団的な夢がユングの集団的無意識に近いということも。バック=モースは、ユングベンヤミンを分つのは、唯物論的基礎だ、というんだけど、ベンヤミンは思想の矛盾にも関わらず、どんどん取り入れていくという人だから、違う同じ、というのではなく、ユングの使い方が星座的に(=布置連関)違う、と言わなければならないだろう。ユングも極右的思想も、星座として、使い方の配置の仕方が違えばいいのだとベンヤミンは考えていた、とバック=モース自身も言っていたはずである。

 

小生は、その集団的な夢というのが正直いつまでもわからない。人類の想像力に原型的なものというのがあるというのはなんとなく、太古の物語の構造が似通っているから理解はできるのだけれども、中間的な集団で、それが区分できるのかどうか、という点に疑問が残るのだ。ドイツ的な集団的無意識、日本的な集団的無意識みたいな共同体を中間的な閾として設定する根拠はどうなんだろうか、ということだ。ただ、遊園地もドラえもんも日本的な文化だということであれば、それはまあ、設定可能なのかもしれない。恣意的だけど。

 

集団的な夢とプロレタリアートの意識との関わりも、いまだにわからない部分である。ガチの活動家なら、「見ることの弁証法」を使って、ブルジョワジーの欺瞞的な進化の夢から覚醒して、階級意識に目覚めることが重要だというだろうけど、その辺がベンヤミンもバック=モースも曖昧にぼかしている気がするんだな。ベンヤミンは、わかってるインテリゲンチャと蒙昧な大衆という図式を自分の中で取りたくなかっただろう。バック=モースだって立場上、そんな煽りはできないわけだから、その辺、「見ることの弁証法」で何がどう変わる、誰がどう変わるか、という部分の回答は避けているように見える。示唆がないことはないけど、明言は避けている気がするな。

 

まあ、思想を教壇で語る、というときにつきものの、行動指針、運動方針としては、自分の裁量に任せる、体の言い訳は仕方ないのかもしれないけれどね。戦争中の蓑田胸喜とか平泉澄とか滝川幸辰とか河合栄治郎とか、客観的に思想を言おうとしても、それは行動指針として受け取られる素地はあるし、実際、そのように受け取れとメタメッセージを放つ場合もあったわけだからね。

 

アドルノなんかは、そのインテリゲンチャが蒙昧な大衆を啓蒙するという図式じゃなくて、インテリゲンチャはますます進む大衆化の中で否定性として機能することでバランスをとっていく、みたいな立場をとったから、啓蒙は〈引っ張る〉んじゃなくて〈突き放しつづける〉感じだよね。ベンヤミンは、〈言わずにみんなに読み取り任せます!〉みたいな感じかな。

 

なんか、こういう本の補助線として、小林多喜二を読んでいたけれど、多喜二の小説の主人公の方が、明確にオルグするし、わかりやすいよね。でもアドルノなんかは、野蛮を克服するために啓蒙や理性が生じたのに、その理性自体が野蛮に転化しちゃうんだから、何事もその否定性にとどまる場面が必要だよね、って、運動自体の否定性を肯定する側だったから、六十年代に女子学生がセンシュアルなかっこうでアドルノの教室に入ってきてショックを受けちゃうみたいなエピソードは、ちょっとかわいそうっちゃかわいそうだよね。わかりやすい解放や変革のメッセージとは違うから。でも、そのわかりやすさを疑えよっていうメッセージだと思うんだけどね。

 

でも、バック=モースはベンヤミンの方法を、多少、個人の覚醒や、それに引き続く行動変容の指針にする示唆はしているのかな。

 

新しい自然を資本主義の呪縛から解き放つために、魔法を解きながら、社会変革の目的のためにその魔法の力全てを救出する。これがベンヤミンのおとぎ話の目標であった。集団の歴史的目覚めの瞬間、子供の問いである「僕はどこから来たの」を、社会史的形式に変えた問い──近代的存在、より正確には近代の夢世界の形象はどこから来たのか──に対して、そのおとぎ話は政治的に爆破力のある答えを与えてくれるはずだったのだ。

 

バック=モースの政治的=politicallyは、議会民主制いわゆる大文字の政治にかかわるものではなくて、我々の生をとりまく生権力いわゆる小文字の政治にかかわるものだと思う。そうした生権力の把握と目覚め、については、確かに爆破力のある=explosiveものとして機能する可能性はあるだろう。

 

まあ、面白いですね。

 

 




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