長い本を毎日ゆっくり読むというのは、別の人生をともに歩むことと似ている。と、スカしたものいいをしてしまうくらい今日の朝は調子がいいからなのだけれども、一応、本音は本音である。速読家がもしプルーストなりを10分で読むにしても、書いた方は長い時間をかけた。その長い時間を自分も追体験するのならば、長い時間をかけて読んだほうがいいと思う。
新書なりを30分で読む、というスタイルがあってもいいけれども、いかな新書でも30分で把握するのは、常人だと難しい。小生の知り合いで、東大理三の人物がいたが、その人であれば可能かもしれない。しかしそれでも、すでに持っている知識で、書かれている内容を推測し、理解して読んでいるように見える。
ピエール・バイヤールの本に『読んでいない本について堂々と語る方法』みたいな挑発的なタイトルの本があったけれども、読んでなくとも、推測で、それっぽい発言をすることはできる。それっぽいとは、100人中90人が持っていそうな言葉や結論を、小説内のいくつかの言葉などを用いながら、書くことである。バイヤールの場合は、推論の必要性を、裏テーマとして持っていたはずだけれども、一般的にそれっぽいことをいうのは多少の知識さえあればたやすい。
映画を観るというのがなかなか難しいように、本を読むというのも、何を「読んだ」とするのかで難しいところがある。ページをめくった、内容を理解した、それについて議論ができる、とグラデーションがあって、10分で読むというのは、例えばインタビューに際して時間がないけど、著者の歓心を買うために、こういうことが書かれているなと確認するときの読み方である。かつて、本屋がまだ町中に多くあったときに、それで待ち合わせ前に大量のどうでもいい著書に目を通すことはままあった。だから、10分で読むというスキルも、わからなくもない。
というわけで、とうとう第三部第八章「1」に突入である。この章は、「大衆文化の夢の世界」というタイトルがついているが、要するに前回の話を踏まえていうと、大衆文化の初心って何だったっけ、ということを思い出すことである。「初心」は、小生の理解だけれども、今や打ち捨てられた何かの中に、ユートピアへの思いを読み取ることがまずは求められる。
要するに、例えば『三丁目の夕陽』は昭和の家庭を描いて温かみのある内容がウリだけれども、一方で悲惨な昭和の姿を隠蔽した昭和ノスタルジーとも呼ばれる。ベンヤミンの見方を応用すれば、こうした夢としての昭和三十年代(テーゼ)と貧しく暴力もあって生きづらかった昭和三十年代(アンチテーゼ)をモンタージュしてみることによって、その時代の初心の形を正しく見切ることだと言えないだろうか。どちらも昭和三十年代の姿だが、それらを現代とさらにモンタージュして、小生らが失ってしまったものを追想する、というか。
この追想や、かつての時代が思い描いた理想を「夢」とベンヤミンが言うのかというと、おそらくは追想の対象が実際に生きていない時代だからだろう。ベンヤミンは1892年生まれで、パサージュの時代1820-40年代には生きていない。小生も昭和三十年代を知らない。けれども、追想という形で、その時代に入り込むためには「夢」を共同的な記憶として、人類が深層で繋がっている部分だと仮定しなければならないだろう。ここでベンヤミンはユングと繋がっていくのだと思う。
この章でまず語られているように、マックス・ヴェーバーは近代を魔術から解放されていく過程と捉えた。脱魔術化とも言いうる。消費社会論の文脈で90年代末に語られたことは、消費社会の合理化は最終的にマクドナルド化(標準化)に行き着くとか、消費社会の再魔術化だとか、そういう話だった。それはどちらもジョージ・リッツァの議論で『マクドナルド化する社会』と『消費社会の魔術的体系』だったような気がする。
というか、オヤジの咳払いがうるさい。集中が途切れるから遠慮してやってくれよ。オヤジと言ったけど、小生よりも若いじゃん。
ベンヤミンはヴェーバーをことさらに批判はせず、合理化が進む一方で、神話化(=魔術化)が進むという逆流に注目した。確かに、ディズニーランドは、徹底的な合理化を仕事上進める一方で、その空間にはアメリカの神話的形象が散りばめられる。海賊の夢、摩天楼の夢、開拓時代の夢、奴隷と融和協力する夢(トム・ソーヤー)、宇宙時代の夢、子どものころの安定した世界の夢(トイ・ストーリーマニア)、御伽噺の夢、男女の理想的関係の夢。ディズニーリゾートの入場時、あまりにも人間の俗悪な姿を見せられて辟易する(行列、先に入りたい欲望、横入りとかを激しく嫌悪する姿、どうにかして人を出し抜こうとする狡知、自分さえ良ければ良しという姿勢、高価な食事、無駄なガジェットなど)のだが、その向こうにある夢とのギャップが、そのギャップこそ、一周まわった魅力なのかもしれないと思い始めた。
ベンヤミンのロマン派批判は、ロマン派が、産業社会と科学技術の接近に対して、芸術という領域を神話として残せると安易に考えたことだとバック=モースは述べている。最終的にアドルノはそっちの可能性を模索したとも。ベンヤミンは、それらがナチスに利用されていることから、神話として語られるのは芸術だけじゃなく、産業技術全てに神話がかぶさると思っていた。それは必然的なもので、その力から目覚めるためにはシュルレアリスムとプルーストの追想という方法が有効だと考えていた。
ルイ・アラゴンの『パリの農夫』は、パリの新しい風俗の神話的相貌を描いた画期的で、シュルレアリスティックな作品だとベンヤミンは考えていた。そこから、パサージュは神話を利用するが、神話を打ち破るモンタージュ的な見え方もあって、後者に着眼することによって、並置によるシュルレアリスティックな衝撃が、遊歩者の中に訪れると言うのだろう。
今日は涼しくていい。涼しいので、頭も働く。朝ランも続いている。
個人的には本を読んで、「読んだ」ことで出力されたアウトプットが、人生なんだと思う。