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だるい・カバラ・甘露寺さん ~『ベンヤミンとパサージュ論』を仕事しながら読む~ 47

だるー、土曜出勤。

どうせなにも起こらないだろう、という時に限って厄介な案件が起こるんだよね。昨日の変なクレームとか。

ハイハイ、それではこうしていただいてもいいですか、と穏やかに軌道修正してもらうことができたので事なきを得たけれども、はてさてあの人はこれからも事柄を針小棒大に、他者を巻き込んでいくのだろうかと案じたら、お先が暗くなった。

 

ベンヤミンとパサージュ論』の第三部第七章の「4」は、ベンヤミンの思想におけるカバラ思想の位置についてバック=モースが論じたものだ。カバラ思想。厄介なんだよね、こういう宗教的価値意識に基づいた思考法。だから、アドルノも当惑したというようだし。

 

今まで読んできた流れからすると、バック=モースはベンヤミン唯物論的思考に強い力点を置いているけど、例えば三島憲一氏なんかは、ほとんどベンヤミン唯物論には重きを置いていない。

 

ベンヤミンの知的生産の基礎にあるのは、ドイツ青年運動、ユダヤ神秘主義、そしてプルーストシュルレアリスムである。マルクシズムに関する議論や社会的事実の収集も重要だが、それをはじめたときには、もう最初の「刷り込み」は終わっていた。最後まで、決断主義的な精神論、ミメーシス的言語哲学、メシアニズム、追憶と瞬間に関する経験と理論を彼は放棄するつもりはなかった。ただし、その「刷り込み」のゆえに新しいものを拒絶することもなかった。異なる知的傾向との媒介をはかるよりも、重ね合わせたり、忍び込ませたり、または自己の中に極端な対立を作ることで、なにかが起きるのを待っていた。(『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』)

 

ここで「ユダヤ神秘主義」というのがカバラ思想であった。小生、あまりそれについてウィキ以上にはわかっていない。

 

三島本は、いわゆる「左翼的」ベンヤミンを掣肘する内容が記されている。交友関係も思想的影響関係も、保守と左翼の間で揺れている。『歴史と階級意識』を読みながら、フランスの右派雑誌『アクシオーン・フランセーズ』を購読していた。クラーゲスやシュミットといった保守系の人々の思想も受容していたし、ブレヒトなどの左派的芸術家、ショーレムのような神秘主義思想研究者と、いろいろな極をいったりきたりしていた。

 

三島さんは次のように書く。

 

〈極端なポジションのあいだで動く〉という危険な両極の組み合わせ、その配列や関係からこそ生産的な認識が生まれると言いたいのだろう。その意味では単に右とか左、進歩とか反動といった二項対立を超えた意味のポテンシャルを彼が保持しようとしたというだけでは不十分かもしれない。むしろ、配列(コンステラツィオーン)という考え方に照らすのがいいかもしれない。

 

ベンヤミンには、あるテクストの真の名は、配列を並べなおしたり、配列の形を変えたりずらしたりすることで、みえてくるはず、という神秘思想的なところがあった。アレゴリー読解もまさに、そうした実践の試みだと言えば、言える。アナグラムに近い。三島さんは、こうした思考法について、先に述べた本の中で書いている。

 

三島さんはそこから、ベンヤミンの古書収集癖について触れ、それらの配列や変なところからの引用を集めて集めて、それらを配列しなおして一冊の本にしたとか、その引用先を今でも学者が探しているくらい変なところから持ってきてるとか、それくらいの古書収集癖があったことを示している。こういうベンヤミンは面白い。バック=モースのベンヤミンが結構つまらないのは、こうした人間的な営みをあんまり重視せず、認識論的な革新性を積極的に言いつのろうとしている姿勢からかもしれない。

 

ま、それはともかくとして、この第三部第七章「4」については、ベンヤミン思想におけるカバラ思想の強さをバック=モースも言っている。それは、カバラ思想家が現世を「事物の奈落のような多様性」の世界とみ、その「多様性」の中から真なる配列を見出すことによって、真理に至る、という発想の解説からしても明らかである。アドルノはそれを恐れていた。だから忠告したりしていたのである。見出せない場合は配列が間違っている、とし、真なる配列を目にすると、そこに真理が到来するはず、という見通しがあまりにもシュルレアリスムすぎるというわけである。

 

どうでもいいけど、小生の本棚に、『背廣の天皇』という本が眠っていた。著者は甘露寺受長。華族である。1880年に生まれ、1977年に亡くなった。

 

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思えば、『鬼滅の刃』において恋柱に甘露寺蜜璃という人物がいた。舞台設定は大正時代。なるほど、甘露寺受長の奥さんに甘露寺満子さんという人がいたなと思って、作者はその辺から名前を拝借したのかと推測した。蜜璃は、大食漢で、家もかなり格が高いように書かれている。そうなると、この時代にそれだけ食事を出せるのだから、なるほどなんとなく設定もそれっぽく合わせてある。そういう変なアナグラム的要素が、『鬼滅の刃』の魅力でもあるんだろうと思った。

 

いずれにしても、アナグラムとかカバラ思想とかっていうのは、考え方としては面白いけど、そりゃアドルノは怒るよね。いや、並べられただけで真理が見えるってさすがにお前だけだろ、って。

 




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