以下の内容はhttps://mitsuroux.hatenablog.com/entry/2025/07/16/112136より取得しました。


土曜労働・歯車・養子縁組 ~『ベンヤミンとパサージュ論』を仕事しながら読む~18

土曜に働くのは嫌いじゃない。働くって、もう我々の世代においては作業の印象があるのかもしれないけど、昭和な気持ちがまだ多少自分の意識の地層に残ってる小生的には、自己表現の部分もあるのかと思ってる。窓際の小生が、「労働は自己表現」なんていうとおかしいかもしれないけど、社会が円滑に回るための歯車としての「自己表現」というのも悪くはないと思っている。小生は、所詮歯車なんですな。

 

確かに、そんな歯車を代わりはいくらでもいると切る人も結構いて、虚しいなと思うこともないわけじゃないけれど、大きい歯車も小さい歯車もあって、錆びてたり、欠けてたりするのもあると思うけど、小生は出来るだけ小さくても油を差して、ピカピカの歯車でありたいと思っている。ただ歯車であっても、メカニズムそのものは外に立つことで想像しうるし、その仮想的に外に立って全体を見渡せる俯瞰力こそが、大学とか高等教育で学ぶ一つのスキルだと思うんだけど、今はそうではないのか。

 

窓際だから、もう昇給もないし、緩やかにフェードアウトしていくだけなのだけれども、歯車としての矜持は持ち続けたいものである。歯車に特化しているが故に、感想文を書いてチャラチャラしているサボタージュを周囲も、認めてはいないにせよ、みて見ぬふりくらいはしてくれているように感じる。それはおそらく、日本語における翻訳力ゆえというか、わからずや二人の間に立たせると、そこが円滑に回るという生産力とはちょっと違う技能によるものだろう。要するに、言葉の総量と使用形式の適切さみたいなものを評価していただいてるのだと思っている。

 

それはそれとして、

 

第二部の第三章である「自然史─化石」は、ホント、わからない。

前から丹念に読んでいくとますますわからなくなるので、解るところだけ抜き出す。

例えば、この「自然史─化石」の「1」の終わりにある一文。

 

産業の初期段階においては、初期のモダニティが原始的で古風なものとの近似性を感じるのは偶然ではない。

「感じ」ているのはバック=モースだと思うが、小生はまったく「感じ」られない。ただ、この実感がバック=モースにあって、それがベンヤミン読解の肝だということはわかる。

 

伝統的に歴史は、時が周期的反復という意味においてのみ変化する「自然」と対立する意味を帯びてきた。しかし、チャールズ・ダーウィンの進化論は、自然全体が特異で、非反復的な歴史的コースを辿るのだと論じることによって、この伝統的な二項対立を覆した。

これはわかる。円環(自然)と直線(人間)。反復と差異。反復しながらそこに決定的な差異を生み出す自然史的な歴史性。

 

ダーウィンに由来する自然史的な道行きを社会に適用した社会進化論社会進化論による強者による淘汰という考え方は、社会における弱者を切り捨てる政策を正当化するものだ。そう考えて、《自然史の自然化》について異議を唱えるイメージを、フォトモンタージュという手法で示したジョン・ハードフィールド。

 

進化の過程を社会が進む自然の行程であると信じるのは、幻想であり、誤謬であり、イデオロギーという全く否定的な意味での「神話」であるという批判的な主張をするためである。

 

これを、ベンヤミンは見て、自分の著作に応用できる、と思ったようなのだ。

 

だれもが自分自身の低級な安寧にのみ目を奪われているこの社会は、動物のような愚鈍さをもち、しかも動物のもつおぼろげな知を欠いているため、盲目の大衆として、あらゆる危険に、ごく見やすい危険にさえ、捕まってしまう。

 

論理でからめとられる前に「動物のもつおぼろげな知」のような本能的警戒感を、『一方通行路』のようなモンタージュ的手法で描かれた書物でやろうとした。

 

ベンヤミンのころには、人間の進歩は、今よりも十分に信じられてきた。パサージュに陳列されている初期資本主義のころの新しかった商品は、もう、役目を終えてそこにいる。それを、考古学的に眺め、その意味を救済すること。

 

言語でやると、その結論はイデオロギーにからめとられる。ならば、モノとイメージにおいて、その結論部分を示し、心の中に住まわせることができれば、とベンヤミンは考えた。幻想がイメージだったとして、「これって幻想だよね」といっても、幻想はびくともしない。ならば、その幻想を別の幻想をもってバラけさせる、というのがどうも『パサージュ論』の企図のようなのだ。

 

なんだろう、今なら、AIやスマホという新たなテクノロジーによって人類が新たな段階に入っていくという神話があったとして、その前歴史的段階をモンタージュ化された歴史史料の組み合わせによって想起しようということなのであろうか。

 

歴史的指示対象が無批判に肯定され、「自然」であるとされ、それが辿った行程を「自然」と見なすなら、そこに生じるのは神話である。逆に歴史的に近代的なものを名指す行為を通して、前歴史的自然が想起されるなら、それは神話からの脱却である。

 

若いお母さんがたくさんいて子どもを産んでいた時代という「自然」性もそれなのかな。養子縁組はもっとたくさんあって、血のつながりよりも、別のつながり方があった、ということを示したりするということなのかな。

 

 




以上の内容はhttps://mitsuroux.hatenablog.com/entry/2025/07/16/112136より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14