肉体労働がこたえる年齢になってしまった。荷下ろしのような作業を頼まれることがあって、それに従事した今日の午前中は、もう頭がもうろうとしていた。熱中症かと思ったけど、水と塩を飲んだら、まあ治った。でも、施設から母の容体がどうのという報告があって、それについては心配した。カミュの『異邦人』とか読んでる場合じゃないね。
で、新潮文庫100冊チャレンジの方が面白くなって、ベンヤミンに飽きが来ていたのか、ちょっと一日目を通すのをためらった。というかコピーしたはずのページがどこかにいってしまって、本を読まないと何も書けないと悟ったからだった。暑さと太陽のせいだろう。
第二部の「序」の「3」で、バック=モースは、『パサージュ論』はベンヤミンの「歴史哲学」の企てだと言っている。「歴史哲学」。もうこのワードだけで思考停止ね。暑いから。暑いところで「歴史哲学」とか聞いたら、もう眠くなるだろ。でも、がんばって、その「歴史哲学」がパラフレーズされている部分を探す。
『パサージュ論』においてベンヤミンがこだわったのは、「真実」の図像的で具体的な表象を示すことである、歴史上の過去の形象によって哲学的観念が可視化されることだった。
はあ、うん......。そんな対応見せようものなら、ベンヤミンを研究している修士の学生はいきり立つことだろう。「歴史哲学!歴史哲学!歴史哲学!」。なんのこっちゃという感じだけれど、分析哲学とかならともかく今「歴史哲学」ってワードをホットに使う人っているのかな。そういう意味では「歴史哲学」、一つの学術的モードだったんじゃないか。
で、バック=モースはそんなこと言ってもやっぱり読者はわからないだろうと思って、四つの論考を用意していると述べる。これが、わかりやすく話そうとしているのか、本人はわかりやすく展開しているつもりが受け取るほうの知識がないからわからないのか、どちらかわかりにくい。たぶん、後者。
わからないまま、記してみる。
第三章では「自然史(博物学)─化石」というキーワードのもと、「ベンヤミンが、工業製品の世界を化石、すなわち残存する事象の表面から読み取る生きた歴史の痕跡と見なしていることを明らかに」する、ようだ。要するにベンヤミンは、考古学博物館のような展示によって、古い時代の姿を明らかにしようとした、ということをバック=モースは論証しようというのだ。
第四章では「神話的歴史」というキーワードのもと、「「進歩」概念の批判を扱」うということだ。私たちは、自分のことで考えても、古い自分を内省して、新しい自分へと成長することを良しとしている。その新しい自分とは、実は「同じもの」ではないのか。「同じもの」なのに、それを「新しいもの」として錯覚させる幻影(ファンタスマゴリア)を、この章では追う。
第五章では「集団意識における願望現象」を「細部まで検証」しようという。ここが一番わかないんだよね。「過去を繰返すのではなく、救済するような文化様式を進歩的なものと認識」するのが、ベンヤミンにおける近代の本当の意味での「進歩」で、似非-進歩は新しいふりして過去を繰返すもんだっていうのだよね。
第六章では「ボードレールの詩に表現される近代のアレゴリー」について分析するみたい。ベンヤミンのアレゴリーは未だにわからないんだけど、ボードレールの詩を美的な対象としてみるんじゃなく、近代が見せない裏面を、それとなく、表しているもので、シンボルみたいに全体性が集約されてるんじゃなく、断片を寄せ集めるとおそらくこんな形になるだろう、みたいに読み解くふうの表し方、なんだよね。それをボードレールの詩でやってみようというわけっぽい。
というわけで、やってみるけど、バック=モース自身も、決して全体を捉えているわけじゃないし、そもそも本人にしか無理だろというアドルノの意見ももっともだとして、「目的は教育的なもの」と、こういう読み方もあるよ、という姿勢を示すことが本書では重要なんだと述べている。
真面目過ぎる。もちろん、学術的著作だから真面目じゃないといけないんだけど、小生は不真面目なのが好き。ベンヤミンも、不真面目なことを真面目なふりをしたらどうなるかしらと思って、アレコレ試したんじゃないかと思われてならない。現代は不真面目さばっかりで、そんな時代には真面目さが一つの逆張りになるわけだけど、そこにも真面目な不真面目と、不真面目な不真面目があって、小生は、前者を目指している。
まあ、ここからもうわからないけど。