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鬼滅・進化・パラドクス 〜『ベンヤミンとパサージュ論』を仕事しながら読む〜15

7月5日、更新が途絶えたのは、巷で広がっていた予言に慄き、身を隠していたからではなくて、先日揃いで買った『鬼滅の刃』をバーっと読んでいたからだった。で、だいたい話はわかり、小生もこのようにしていかに死ぬかを考えなきゃいけないな、と気を引き締めた。引き際、死に際が、潔いものでありたいものだと思った。実際にできるかはまた別の話だが。

 

時には、ブログも更新できないくらいに忙しい日もあるというところをアピールしておかないと、こんなに楽でいい加減な職場があるのかと誤解させることにもつながるから、時には更新できないのもいいのかもしれない。いや、実際はちょっと更新するためのネタが思いつかなかっただけなのだけれども。

 

ベンヤミンとパサージュ論』の第三章はさすがに骨がある。特にベンヤミンの使う「自然」と「歴史」が、ややこしい。神の摂理としての人類の運命。人間が自ら選び取ることのできる歴史。その間にある「自然」の意味合いが、理解はなんとかできるのだけど、なかなか腑に落ちないところがあるからだ。「自然」は、動物としての人間の宿命みたいなところで、進化はするから史的な発展性はあるようなのだけれども、歴史のような自由意志の世界ではない。

 

神の摂理に対して、進化論を唱えたダーウィンが、歴史性を持つ自然の姿を拓いてしまったのだと言える。人類はどこから来たのかという問題に対して、その間を繋いだために、これからのことがそこから演繹的に導き出されて社会進化論になり、それらが俗流にアレンジされてナチス政権のイデオロギーとして機能してしまっていた時代をベンヤミンは生きている。

 

ベンヤミンの生きていた時期よりもなお、今の時代は「歴史哲学」とか言っても、やっぱりは?ってなるものらしい。その言葉が与えたインパクト自身を、我々は忘れている。普通、歴史というと、過去のジグソーパズルを確かな史料に基づいて完成させることとなっている。そして、完成した絵や物語から、「こういう時にはこういうことをやってはいけませんな!」みたいな教訓を得ることも、まあ、やってる。

 

そこから歴史哲学は一歩進めて、色々人類は滅亡したり興隆したりを繰り返して、反復しているけれど、最終的に種子が発芽して花をつけ種を残すように、各国家にも目的(花を咲かす)があり、それら諸国家の総体である世界史にも目的があって、そこに向けて人類は歩んでいるんじゃないか、その目的とはなんだろうか、歴史の中から抽出してみよう、みたいなノリを持っている。

 

幼児から大人になって理性を得ていくように、古代から近代にかけて、社会や国家も理性を持つ、ようになる。今はできなくても、徐々にできるようになっていく(はず)だから、頑張れ、みたいなノリが歴史哲学にはある。

 

絶対に逃れられない神の宿命ではなく、なんでも自由にいけますよみたいな放縦な歴史でもなく、ある程度自然にプログラムされた中で人類が目指すものってあるよね、的な説得はまあそうかもと思わせる。目的があれば、そこに到達する方向を向いているかどうか、今どの段階かとか、何が足りないのか、とか色々わかっていくだろう。自然でさえ、プログラミングされているのに、長い目で見れば、進化という歴史性を帯びている。だとすれば人間をや、というところだろう。歴史を自然に喩え(蕾が花になるように、人間も何かかポテンシャルを開くはずだよね)、自然も歴史に喩える(反復するだけだった自然にも歴史性のようなものがあるよね、強者生存とか適応プロセスとか)。この、ある自然と歴史の相互的比喩関係、これの問題をベンヤミンは(たぶん)指摘しているのだと思われた。

 

で、『パサージュ論』は、そんな歴史哲学や、従来の哲学とは、何が違うのか。

 

第二部の「序」は、パサージュ論の資料分類について。

 

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