(これは第二章の「モスクワ」の部分を主とする)
ナポリにおいて、古い時代相に資本主義があわてて入ってきた時の混乱が、記されていた。ではモスクワではどうか。アーシャとモスクワを旅したベンヤミンは、ロシア語ができなかったので、事物をみて、そこから何かを得る方法を試してみようとした。
ベンヤミンの目は、ソ連型の社会主義の矛盾を見抜いた。政府は、生産力の向上、工業化を大規模に推し進めようとしている。文化は、そうした革命精神に合致したリアリズムのみが良しとされ、アヴァンギャルドは否定されていた。リアリズムの周縁で、アヴァンギャルドを演じることも可能であるが、権力がない。権力を得ようとすると公式見解であるところのリアリズムを奉じなければならない。ベンヤミンは明らかに、経済と文化の相剋を見抜いており、結果、のちに起こる大粛清のようなものから逃れられる。
ただ、一方で、この時代に知識人の旨とはいえ、アバンギャルドには魅力を感じていた。しかし、それはモスクワではなくパリでこそ、開花できるのではないか。そう、ベンヤミンは思うようになっていく。アーシャと別れ、モスクワに背を向ける。
ものを考える際に、党派に属さず、全方向とやり合ったり、全方向と歩調を合わせたり、ということが自在にできるのが理想であったと言える。大人になると、そんな夢は叶えることはできず、人は否応なく党派に絡め取られていくことを理解する。ベンヤミンが、90年代に貴重だなと思われたのは、その党派性に与しない感じだったんだろうと思う。で、若干の公正派だった、から。でも基本はアナーキー。
公正も正義(公平な再分配の意味で)も、とりあえず無理は無理だし、汚いものでも美味いなら、食べようかなという気持ちになってはや何年だろう。
ベンヤミンを読むという試みは、こんな感じで、政治を引き寄せる。いや、小生も、お花畑でいたいわけですよ、本当のことを言うと。そりゃあ、誰とも仲良くやりたいし、会社じゃ、こんなこと黙ってますよ。会社では、ジュリアンいうところのおためごかし、を交換してればいいんだから。