(バック=モース、第一章3にあたる)
今さら橘玲氏の『言ってはいけない』(2016)を読んで、進化や遺伝でのアプローチも面白いなと思った次第。普段の自分のアプローチからすると、考え方が違うんじゃないかと言われそうな部分もあるけれど、それはそれ。また齋藤孝『50代からの「教養」格差』についてはまたマーケティングしてるなと思う部分も大いにあるけれども、自分がやってることは齋藤孝の流れにあるので、反発的な批判はできない。でも、これ1050円かと思うとコンプレックスビジネスだなと思わなくもない。
それはそれとして、バック=モースの議論は、このカプリ島滞在期におけるアーシャとの出会いが、今まで秘儀的、抽象的なベンヤミンの描くものに、変化をもたらしたというものである。『ドイツ哀悼劇の根源』から『一方通行路』へ、「装飾過多の一九世紀ブルジョワジーの室内空間」的なものから「グロピウスやコルビュジエ等の新しい建築のような明るさ、風通しのよさ、浸透性に満ち」たものへ、書くものの質が変化したというわけである。
『一方通行路』という作品は、まあ、日常の断片が記され、それを読んで読者は、社会の一断面の気づきを得る。わかるわかるの向こう側に、なぜこうなっているかを問いかける。スガシカオの「濡れた靴」みたいなものか。知らんけど。ベンヤミンのアレゴリーは、「寓意」と解されるけれども、そこにありながらそこにないものを指し示す何か、であろう。これは自信がない。シンボルとの違いを、何かでベンヤミンは 述べていたが、集約的な別物ではなく、横ずれしてる別物だ、という認識である。
だからガソリンスタンドでの活動が現代における知識人の活動を指し示すものとなるし、落書きの上に貼られた注意書きの感じが、現代の権力関係を指し示すものとなる。
移ろいゆく具体的なものの中に、その一瞬を真実として受け取ろうという姿勢が、ベンヤミンにある。この一章の3では、この切断の体験と切断前と後の対比を通して、ベンヤミンの改心のようなものを示している。そしてそれは伸びていって、『パサージュ論』になっていくとも言いたげなバック=モースであるが、そこまではまだ言えない。