
このブログも18年目で、このブログを見返すことで、過去にあった出来事がいつだったのかを確認出来たり、もう忘れかけていることを思い出したりするので、備忘録のような役目になってきました。もうひとつ、自分の撮ってきた写真を見返して、全体傾向として写真がどう変わったかを見ることもできるはずです。ところが、あんまり変わらない気がします。備忘録と書いたのですが、それを読んで、あぁそうだった、と思い出すことができれば良いのですが、何度、読み返しても、そこに書いてある出来事を思い出すことが出来ないこともあります。
記憶はシナプスの反応状態だと読んだか聞いたかしたことがあります。そう聞いたときに思い浮かべたのは、街路樹の幹から枝へと、複雑に、大量に、巻き付けられたイルミネーションのひとつひとつの電球(LEDイルミネーション用ライト、と言うらしい)が、この記憶のときはこの枝とこの枝を点灯させあとは消しておく、別のあの記憶のときは今度はこっちの枝とあっちの幹の上半分を点灯する、と言う、すなわち十一面観音菩薩の手旗信号のようなパターンが記憶のひとつひとつの鍵になっている、そんなことを思い浮かべました。合ってるかな、間違ってるかな。すなわち一つの手旗信号が、ブログに記載された過去の出来事を読むことで、それと連動してその記憶に紐付けされた形に電球がパターン点灯し、その点灯した信号を手始めに、別の手旗信号が連動点灯することで、そう言えばあのときは…と言うように、記憶がずるずる引き出される記憶の連鎖が起きる、と言う感じを思い浮かべたわけです。
ところが過去記事を読んでも、この最初のパターン点灯が起きない。記憶のスイッチとなるはずの過去記事を読んでも、スイッチが壊れてるか、電球が切れているのか、なにも思い出せないことがあるようです。すなわち長いことブログを書いていると、そのブログは備忘録になる一方で、記憶からこぼれ落ちてしまった、ゆえにこのブログは、既に記憶とは言えなくなった過去の覚えていない出来事の記録場にもなってます。そういう物を読むと言う行為はどう言う意味合い、と言うか、どう言うことなのでしょうね。
もしかすると第三者が書いた日記めいたもの、偽日記かもしれないもの、を読んでいるのと変わらない。
結局このブログには写真のことを書いてることが多いので、写真行為に置き直すと、ファウンド・フォトで知らない誰かが残した大量の写真(蚤の市から買ってくる?)からセレクトして作品とする行為は、セレクトの結果、ひとつ遡ると作家のセレクト眼やセレクト基準を示すことを作品としています。ここを認めないと、ただの盗作とかパロディになるんじゃないか。あるいは収集して整理してセレクトしてまとめ直すと言う「修復行為」のようなことが、作家表現と言う作品と言うことです。
では、自分書き残した日記から既に読み直してもなにもシナプスが反応しなくなって忘却された、記憶のようなもの、これを集めてみたら、それはどう言うことなんだ?なんとなくの直感みたいなものですが、ファウンド・フォトと似てるかな。