
土曜日にストリートスナップ写真の新たなエースだと思う、写真家Nさんと、ゲストの二名の方によるトークショーを聴きに行きました。いま音楽を聴く人の多くはイヤホンを耳にさし、外を歩きながら、電車に乗りながら、仕事をしながら、聴き続けているが、たとえばむかしの蓄音機の、あのラッパの前に立って音楽を聴くと、音が風圧になって身体が揺すぶられる、そういう、耳だけで聴いているわけではない、身体全体に届いてくるのが音楽であったはずで、いまの音楽の聴き方とは違っていた、という話から、写真は音楽に似ていて、光という波を写真家が身体で受け止めて対峙する、そのときに理屈なんかなくてただ赴くままに撮っていく、といった話になっていきました。(そういうふうに解釈したわけですが、これも私だけの、トークしていた方々の意図からずれた、解釈かもしれませんが)
そのあと考えたのは、この比喩をよく考えると、音楽の演奏者は写真で言えば街や風景や被写体であり、音楽の聴き手が写真家なのか?ということでした。音楽の演奏者は聴き手を意識して、そこに届けるために、音楽を演奏していくのか、それは二の次で作曲家の意図を解釈した自分なりの表現を追い求め、聴き手に価値を届けることは二の次なのか、わたしはわかりません。というより、たぶんこういうのは二者択一ではないから、混沌とし、それぞれの音楽家の考え方があり、そのそれぞれの音楽家もいろんな考えに常に揺れ動いているのでしょう。でも音楽に例えると演奏者にあたる被写体、イコール街や風景は、写真家のためにそこにそうあるわけではない。たまたま写真機を持って、その圧というか波を受け止めようとする輩が写真家というだけのことで、写真機がなくても、我々は光のなかで自分という「内」から、自分の「外」に対峙している、そしてそのことがまさに生命ということだから・・・こう考えると、写真を撮るということは、たまたまであり、その根本は撮ろうが撮るまいが生きている証だ・・・となるのでしょうか?
まぁこんなのはストリートスナップなどの写真とはいえその一部において、という前提のなかでの話だと思います。
でもそこに(身体が光という波を受けてそれに身体的反応としてシャッターを押すというそこに)、まだまだ決定的瞬間と構図の規律がはっきり残っていたブレッソンや木村伊兵衛の世代から、フランクやクラインや森山大道の世代へ、ジャズでいえばコードからモードに移り演奏の自由度が拡大した(そうですね、音楽に詳しくないから詳細まではわかりません)ように、世代が変わっていけた源泉があるのでしょうか?もちろんブレッソンの世代がいたから、フランクやクラインが生まれたわけで、系譜のなかでそこを飛び越えることは出来なかったのでしょう。
とかなんとか、またもオタクな写真論的なことを考えたという記録でした。