
昨日のブログのつづき。森山大道が記録38号に書いている「写しつづけてきた数多くのイメージのルーツが、少年期に体感した数々の記憶にもとずいている」について、では自分の写真を眺めて、なにか少年期の記憶を甦らされることがあるか?なのだけれど、昨日のブログに載せた鉄道のガード下を自転車が走っている写真、たぶん多くの人はなんでここを撮るの?つまらないし提示される意味がわからない、と無視される写真を見ていると、個人的な少年期の記憶は芋づる式に甦る。森山さんはプロだから、個人的な記憶に基づいて撮った写真をもって、鑑賞者と言う第三者に何らかの揺さぶりを加える「写真の力」をもっているわけだけれど、こちらは、そんな責任も必要もないと言えばない。もちろん写真を撮って皆さんにこうして観て頂く行為には、なにか肯定的な感想をいただきたいと言うような下心があるのは仕方ないけれど。ある私的記憶に基づいてガード下を走る自転車の光景を撮る。それを見せる、そこから上記の「肯定的な感想が欲しい」のあいだをどう埋めると言うのか?これはやはり、鑑賞者の別の(少年少女期の)記憶を揺さぶることが出来るかどうか?と言うことなのか。もしそうだとすると同世代の同性がいちばん揺すぶることが出来る可能性があるのが理屈になるから、森山大道の写真がそこに縛られずに、若い世代にも女性にも日本人以外にも「受ける」と言うことは、昭和20年代日本を見ていた少年期の記憶をベースにしていたとしても、それをどういま撮る写真に焼き直しているのか?そこがまぁ「秘伝のタレ」ってことか。森山大道に限らず、たとえば深瀬昌久もヨーロッパでの評価は高い、のかな?以前、フランスでカメラの修理等の仕事をしている方で、趣味で日本の写真集を集めてる人に会ったことがあるが、その人だけかもしれないが深瀬昌久の名前を盛んに挙げていた(ついで荒木、森山、だった)。
私が小学校の五年生か六年生の頃に、住んでいた神奈川県平塚市は、金目川と言う市内を流れる川の川口から上流まで、川沿いに金目川サイクリングコースなるものを整備公開した。自転車2台が横に並んで走れるくらい、言い換えると対向車を考えると一列で走らなければならないくらいの幅の狭いコンクリートの路で、まぁ、最近はどの川にも標準的にあるような気もする(たとえば相模川の湘南ベルマーレが練習してる河川敷のサッカー場あたりにももっと道幅の広い自転車と歩行者用の路がある)。いま、金目川サイクリングコース、で検索したら何件も記事が出てきたから今もあるんだな。これが開通したときの小学校高学年の男の子たちの話題は、早くもそこを走ってきた子供の自慢話に誘導され、とにかく一日でも早く自転車でコースを制覇する、それが「勲章」なのだった。たぶん五人に二人くらいが走ってきた頃には下火になったかもしれない。ちょうどツインライトとかフラッシャーとかバックライトとかセミドロップハンドルとか五段程度のギアチェンジ機構が、あとバックミラーもか、少年用の自転車として流行していて、それまでのまさに子供用のタイヤサイズの補助輪が取れたあとそのまま乗ってきたもはや小さすぎる自転車から、その手の少年用スポーツ車に乗り換える時期と、金目川サイクリングコース開通が同じ頃だったんだと思う。最初に走ってきたメンバーは難所があると言う。地図を描いてどこぞの橋は急角度に右左と角が続くから運転に気を付けないと転倒するらしい。実際に走ってみれば誰でも曲がれるなんてことはない曲がり角なのだが、少年たちは自分の自転車を操縦して進むことに、なんと言うか疑似パイロットのようななりきりをしているから、そこを通過するのは至難の技で、そのミッションを果たすことが誇りとなるのだ。
わたしがそのコースを走ってみたのが、熱があるうちだったか下火になったあとかは覚えてない。そのコースはわたしの小学校の学区内を横切っても接してもなかったから、他学区を越えてコースにはいる最短経路で行きたいものだった。なぜだかコースに入りさえすれば学区間の?学校間の?いちゃもんのない公平な平和地域なのだった。
夏休みのある日に、もう三回目か四回目か、ひとつ下の友達S君と金目川サイクリングを走りに行った。最初に難所とされた曲がり角が続く橋は難所でもなんでもなく、それより上流から下流へと走ってくる場合、東海道線を潜る為にすこし前から道が坂となって下り、線路の下ぎりぎりを潜ると、今度はもう上らずに河川敷の比較的川の流れに近い高さで路は続き川口近くに至る、その下り坂でどれだけブレーキを掛けずに高速で線路の下を通過できるか?が重要なポイントになっていた。S君とそこに来たとき学年がひとつしたのS君はわたしの前を走っていて、彼はまだ買い換えてもらえない小さな自転車を漕いでいたかもしれないな、それでもブレーキを使わないまま坂道を全力でペダルを漕いでますます加速しつつ突っ込んで行ったのだった。ひとつしたに離されるわけにも行かず、慎重派のわたしも同様に高速で坂を下った。ちょうどそこに東海道線の長大な貨物列車が走ってきた。コンテナ貨物ではなくワム5000だったか6000かな、そう言う型式の貨物車をずーっと長く連結していたと思うな。それから貨物列車を引いていた電気機関車も何種類か走っていたけど、黒々と塗られた巨体に黄色い線が引かれたEH10も良く見かけた。そう言う貨物列車が真上を通っている真下1メートルくらいしかないところをS君とわたしは通過した。その時の音の大きさが想像をはるかに越える、もはや恐怖だったのだ。知っていればそんなことはなかったのだろう、一瞬S君のハンドルがぶれたがブレーキを掛けることも転ぶこともなく、ついでわたしも、その恐怖の大音量から抜け出たのだった。するとそこは夏草が繁り入道雲が立ち上がり蝉の声が聞こえる暑い暑い日本の夏で・・・なんてことまでは覚えてない(笑)
以来、昨日のブログに載せた写真の場所や、ほかにも何ヵ所か、思ったよりも頭上のずっと近くに線路の走ってる路を潜るときにはこの日のことを必ず思い出す。この記憶が12才のことだったとすると50年も、ちょうど電車や列車が行き交う瞬間に当たってないよな?と気を付けていてほっとしたりする。あるいはこの際、あの大音量はどれくらいのものだったのだろう?とわざわざ電車が来たときにその下に行ってみたこともあった。しかし、いずれも恐怖を感じるほどでもなかった。通りすぎる車両の重量や速度、回りの音響に関する条件、いろいろなことが絡んでいるので、あれほどの轟音になることは滅多にないことなのか、それとも、想像をしてなかったところに出くわした轟音、と言うことが、あの恐怖の主原因だったのかはわかりようがない。
今日のブログは昨日載せた写真にまつわる個人的な少年期の、昭和40年代の記憶を書いてみました。