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引き潮の時間

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一昨日のブログに書いたように、わけあって、十日ほど外に出ないで過ごしていました。そろそろ動いてみようと思い、神奈川県立近代美術館葉山館で開催中、最終日のフランシス・ベーコン展に行くというのを一つの「仮目標」において、自家用車を運転してみる。すると、ちょっと懸念していたような身体の不調はなにも発生しなかったので、ちゃんとその展示を見てから砂浜をたどり、近くのこの小磯の鼻まで歩いてみました。それから自家用車に乗って昼過ぎに帰宅した。

この季節におよそ十日、外に出ないでいて、十日ぶりに外に出ると、いっせいに木々に新緑が芽吹いていて、三浦半島の丘陵というのか小さな山かしら、そこを覆う全面の緑も、明るい緑のいろんな色が覆い重なるようになっていて、鶯やらの声もよく聞こえていて、これからのひと月、晩春から初夏の、梅雨前のこの季節が、いろいろなものが新生するエネルギーにむせ返る、それがあまりにエネルギッシュで「嫌い」という人もいるのだろうけれど、なんか、それに乗り遅れていたくない感じを覚えるのだった。

だけど、そんなことを言ったって、私は傍観者だ。ここに遊ぶ多くの家族連れを前にして、ひとり、余計な服を重ね着して少し高いこの位置に立ち尽くす。いや、なに、重ね着というのはたまたまなだけですよ。下着のシャツのうえに綿のストライプの長袖シャツを着て、そのうえに春用のアイボリーのカーディガンを着て、そこまでならちょうどいい塩梅だったろうけれど、さらに紺色のこれも綿生地のロングなスプリングコートを重ねているのだった。なんだか一人だけまだこの季節に遅れているようななりをして、写真を撮るためという以前に傍観者として五感に来る周囲状況になんとなく「受け身になり」「なすがままの」状態にあるようなのだった。

転校生になったことはないが、周りに一人も知人のいない新入生にはなったことがある。媚びるように早く友達を作ろうと焦ったりはしないが、なにか状態が好転することを期待する気持ちの欠片を抱いた傍観者的な受け身の新入生なのだった。そういうのは結局自分の気質なのだろう。

ユリシーズ」を読んだことはないし、難しそうだし長大だし読もうという挑戦意欲もわかないが、美術館ではベーコン展のほかにコレクション展として「イギリス・アイルランドの美術~描かれた物語」という展示もやっていた。そのなかにかの長大な小説を題材としたリチャード・ハミルトンという版画家の「祖国アイルランド」というシリーズが二十枚ほどずらりと展示されていた。ユリシーズを読んでいない私が、その作品を見ると、なにか物語の気配や欠片を感じることまではできるが、もちろんそこから小説の物語を類推することも想像することも言い当てることも出来っこない。それでもその気配とともに展示された版画作品にはなにか惹かれてしまうのだ。一つ一つの版画作品のタッチ(でいいのかな?版画でも・・・)にも大きな違いがあったりしてそれが小説のなにと関係しているのかわからないが、わからないのに「そうなのだろう」という根拠のない肯定のような気持ちが起きるのだった。

久しぶりに好天の週末だった。

 




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