
上の写真は一昨年の4月4日に、たぶん、京急の黄金町駅あたりで撮った写真。会社が終わってから大岡川沿いの桜の写真を撮ろうと寄り道したときに撮影した写真を、今朝、気まぐれに見返した中から拾い出しました。一昨年から今年までのあいだ、ここに写っているものに大きな変化があったのだろうか?私にはわからない。京急の電車はいろいろな塗装色があって、くるりが歌う「赤い電車」なのだから、基本は赤であってほしいが、こんな風に赤とクリーム色のツートンだったり、なかには青い編成もある。最近はステンレスカーも走っているのだっけ?でも主流はやはり赤く塗られた電車だ。鉄っちゃんに言わせると、わずかな確率だろうが「もうこの塗装の電車はない」という可能性もゼロではないが、私にはわからない。即ち、この一昨年の写真に写っている電車が私にとって「懐かしい」わけではない。もしかしたらこのあたりの街並み、可能性としては高架下の風景などがいまは変わっているかもしれないが、私は知らない。そんなわけだから、この写真は、例えば、昨日撮った写真と言われても、なんの違和感も覚えない。「今じゃない」と言える要素が見当たらない。
ところが面白いのは、もしこの写真が私が昨日(もしくはごく最近)に撮った写真で、そのときのことを、どこをどう歩いて、どこでなにを食べて、肌寒さや風の具合はどうで、この写真に至る大岡川沿いではこんなことがありこんな写真を撮った、というようなことを生々しく覚えている、すなわちこの写真を撮ったときが「今」もしくは「最近」に含まれている場合、私はこの写真は選んでいないのではないか?と言うこと。すなわち、写真の選択をする私が、写真を撮った私のそのときのことを生々しく覚えているときと、私が撮った写真だとは言え、その撮った日のことを概ね忘れてしまったときとで、写真を選ぶ選択眼が違うと思う。今朝、この写真を見つけたときには、これけっこういいな、と思ったからこうしてここに載せているのだが、たぶん、一昨年に撮って来たばかりの写真を見返したときには、桜を観に行ったのだから桜が上手く撮れているか?花見客の楽しい感じが写っているか?すなわち撮影前に想定した撮りたい写真の基準に合致する写真を探すような気持ちで見返したのではないか、と思うのだ。二年たって、写っている中身には最初に書いたように、今はもう変わってしまった、というところから発生する「懐かしさ」はないのだからそれが選択に「寄与」はしていないと言う前提で、選ぶ写真が変化する。そして時間を置いた二年後の今朝の選択の方が、冷静沈着、というか「決定的瞬間」より「日常の普通」を選べるのではないか。などと思いました。
左下の自転車の人、右下のこちらに向かう二人の男と、向こうへ歩く一人の女。電車の中にぼんやりと写っている通勤客。人のいる街の風景。
本日3/10、茅ヶ崎市美術館で「創作版画の系譜」展を見る。美術館のある高砂緑地の梅はもうすっかり見ごろを過ぎていた。
夕方、車検のために昨日、大磯の自家用車のディーラーに持ち込んだ自家用車を受け取りに行く。大磯から茅ヶ崎まで自家用車を運転しているあいだ、土砂降りの雨となる。せっかく洗車してくれたのに、この濡れた車体が乾く過程で、駐車場の前のバス通りから目に見えない程度でも土煙が立てば、自家用車はまたぞろ汚れてしまうのだろう。