
部屋の中を整理していたら、読んだのか読まずに放ってあったのかも忘れてしまった本があって、ぺらぺらめくってみた結果、途中まで読んだけど読み終わらないまま、いつか埋もれていった本だろうと結論づけた。こう書くと、考古学者の年代同定作業のようですね、ちがうか・・・。
見つかってあらためて読み始めた本は、岩波現代文庫の「日本語と日本人の心」という本で、大江健三郎と河合隼雄と谷川俊太郎の対談が収録されている。いま読んでいるページあたりに収録された対談では創造ということが考察されていて、共通の言語を使っている時点でそれを駆使して詩を作ったり、小説を書いたりしても、それは創造という感じとはちょっと違うのではないか、とかなんとか。ま、そのあたりは通勤電車読書で半分眠りの中で読み飛ばした部分も多いのだが。大江健三郎の発言で二十世紀初頭のロシアの文学者が提唱した「異化」理論というのを紹介しているところがあって、
『いつのまにか自分の見るものがいわば自動化していて、ぼんやりとしかものを見なくなっている。ところが、赤ちゃんが新しい世界を発見するように、恋する人たちが身のまわりのすべてに美しく感じなおしたりするのと同じように、この世界を生き生きとみえさせる。文学においてそのようなイメージをつくりだすように、絵だったらそういう画面をつくりだすように、それが芸術の力だと彼らは定義しました。』とある。
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以前、写真評論家の、たしかS氏が、なにかの雑誌に、『誰もがそれを毎日見ている(見ることが出来る)ところで、かつ誰も撮らなかったところを写真に撮って、しかもそれがなにかをもたらすような写真が撮れれば、それが素晴らしい』みたいなことを書いていたと思う(が、うろ覚えのうえに時間も経っているので都合よく捻じ曲げているかもしれない)。そんなことを思い出した。
自分の見るものがいつのまにか自動化しない。ぼんやりと見ない。新しい世界を発見するように見える。こういうことを継続するには、どうしたらいいのか。須田さんの言う「妄想」しながら何かを見る、何かを見ながら「妄想」する。そういうことが「出来る」体力というか体質が、ある種の写真家の素質なのか。
そう考えると、ニセアカシア同人で言えば、AbHAYASHIさんの写真はそこに肉薄しているような気がしてきた。
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- 作者: 大江健三郎,河合隼雄,谷川俊太郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2002/03/15
- メディア: 文庫
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