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【Book Review】 世界サブカルチャー史 欲望の系譜―アメリカ70~90s「超大国」の憂鬱

 

前回、はてなで記事を書いたのが5月。

半年以上のご無沙汰です。

 

感想は「はてな」に書こうと思っているのですが、とにかく今年は本が読めませんでした。しかしこの年末、どうも、ようやく、ここにきて、本を読む準備が自分の中に整ってきたようです。

 

私は読むときは読みますが、読まないときは読まない、というより読めない。気持ちがそっちに向かわないと、義務感では読めないのです。だから、読むことが仕事に含まれる職業には不向きなんだなと、最近、ようやく気が付きました。

 

これまで公募に食指が動かなかったのは、私は書くことはともかく読むことにムラがあるせいかもしれないなと思います。仕事にするなら、読み書きがバランスよくできるということは必須項目だという気がします。

 

確かに自作本を作ったり、文学フリマに出たりするまでの私は、若いころから比較的本を読むほうだったと思いますし、それなりに読んできたように思います。かといって、学者のようには読めないし、編集者のようにも読めません。「本を読む世界の人」に比べたら、毛ほども読んでないし、知識も教養もお粗末なものだと思います。

 

何が好きなのか、と言えば、物語を創って書くことと、楽しく本を読んで、読んだ感想を書くこと。無邪気に感想文を書いているのが好きなんだろうなと思います。

 

というわけで「戻ってきた、戻ってきた」と、漁師が大漁旗を立ててカツオを待つように、虎視眈々とマイ読書ブームを待っている現在の私。

 

最初の読書はこれになりました。

『世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ70-90s「超大国」の憂鬱 』

 

www.kinokuniya.co.jp

 

こちらは、NHKBSプレミアムで放送された番組の書籍です。

偶然放送を目にし、まとめて番組を見ることができなかったので、書籍を求めました。

 

番組制作者が、ボストン大学教授のブルース・J・シュルマンと、『ニューヨーク・マガジン』誌の編集長である著作家カート・アンダーセンのふたりにインタビューする形式で、それぞれが映画や流行など文化面を中心にした「第二次大戦後アメリカ史」を語るというドキュメンタリー形式の番組。

 

序文で、著者である番組制作者の丸山氏は、「サブカルチャー」をこのように説明しています。

 

「時代の欲望」という捉え難い存在、この問題意識の連続性で考えた時、人々の、社会の底に眠るエネルギーは、少しずつ様々な事象に微かな影響を与え続ける。そしてある日、突然白日の下に晒された時、進行していた変化の大きさに私たちは愕然とするのだ。

 そうした不思議な、ある時代ある社会に形成されるエネルギーをサブカルチャーと、ひとまず呼んでみたら――。こうした精神から「世界サブカルチャー史」は立ち上がっている。

(はじめに アメリカ時代の欲望の正体を求めて より)

 

番組ありきの書籍化なので、本としての形式は、番組の構成に従って70年代、80年代、90年代とそれ以後と分けられ、各時代についてのふたりの知識人の考察が入る、というもの。書籍として、連続性や深掘りする専門性には欠けていますが、逆に整理されていて読みやすいという利点もありました。

 

だれもが知っているような映画から、アメリカ社会の明暗を炙り出していくのは、映画好きとしてはとても興味深く面白いものでした。しかも、アメリカ人がアメリカ史を振り返っているので、アメリカの歴史を擁護する方面に行くのかと思いきや、案外辛辣にバッサバッサとぶった切っています。

 

シュルマンは都会生まれ、アンダーセンは地方出身ということで、アメリカの現状を捉える感覚が少し違うのも良かったと思います。どちらも中立の立場で、宗教的政治的立場は明らかにしていませんが、批判するというよりは冷静にアメリカという国の「病理」を指摘する様子は好感が持てました。逆に「日本の良さに回帰しよう」的な保守的なまとめになっていたのは少々蛇足の趣があると思いました。

 

私の父はいわゆる安保闘争の時代に学生だったこともあって、少なからず当時のエッセンスを持って子育てしたように思います。少々偏りもあったかもしれませんが、よく私に語ったことは「アメリカで起きたことは10年後日本でも起きる」ということでした。それが自分の言葉であったか、誰かから聞いたことなのかはわかりませんが、強く印象に残っています。実際に70年代、80年代の日本の空気感はそう言った「追従感覚」だったのかもしれません。父の世代は、敗戦国となり占領された経験、実際に残った戦後の爪痕により、アメリカに複雑なものを持った世代だったでしょう。

 

私は70年代、80年代を子供として過ごし、90年代に青年期を過ごしました。肌感覚の実感として「アメリカのものは良い」という刷り込みがあったと思います。音楽や映画に、私たちは夢中になりました。私自身は、父の影響も強かったのか、そのあたりが弱かったようには思いますが、とにかくアメリカへの憧れが最も強かった世代だったのかもしれません。バブルの頃、イタリアのスーツやドレスを着てディスコで踊る傍ら、アメカジと呼ばれた古着を着て、リーバイスを履き、「外タレ」と呼ばれた洋楽のポップミュージックのスターに歓声をあげ、アメリカントップ40をMTVで視聴し、ハリウッドの映画に酔いしれていた世代。最もアメリカのポップカルチャーの影響を受けた世代だったと思います。

 

この本では、マドンナの「マテリアル・ガール」に象徴されるように、アメリカは「マテリアル(物質)至上主義の社会」だったと言います。その理由を遡れば既存の宗教に反発した人々が自由を求めて移動してきたために歴史がないからで、歴史がないことにコンプレックスがあり、神話として「西部劇」を作ったが、必ずしもそこに人々の心が根差したわけではなく、結局は「借り物」の世界に足掻いている、というところに行きつく――というのは正直、割とありきたりなものに感じましたが、こうして慣れ親しんだポップカルチャーで語られると説得力がありました。

 

印象的だったことをいくつか。

アンダーソンが90年代は「みんなが同じものを見ていたと回顧できる最後の時代」と言ったこと。シュルマンが「映画製作者としてのタランティーノは歴史家の観点から、非常に重要な存在だ」と言ったこと。タランティーノは自らの映画への愛と、かつて愛した映画の再評価、映画史のアップデートを試みようとしていて、既存の映画のどの型にも当てはまらないような物語の破壊をしている、というのです。何となく、庵野秀明さんを思い浮かべてしまいました。同時期同世代に、このようなタイプの映画監督が現れたということは、日本が「10年前を追う」形は1990年代にはすでに崩壊していたと言ってもいいのかもしれません。ドイツのマルクス・ガブリエルが指摘した「ドイツにも日本にも”精神”に当たる言葉があるが、アメリカにはない」ということを引用していたこと。その「アメリカの思考の物質的な性格」を、すでに90年代初頭に村上龍と柄谷行人が指摘していたこと。マルクス・ガブリエルの思想は非常に東洋的な面があると常々思っているのですが、ヨーロッパで廃れた哲学を「新実存」として盛り返したのがアメリカで、それを逆輸入した形になっているドイツの哲学者がそう指摘するのが何とも面白いと思います。

 

確か出口治明『哲学と宗教全史』では、哲学に終止符を打ったのはレヴィ=ストロースでそれ以後哲学は終わった、というようなことを書いていて、私はそれはかなり荒っぽい言い方だなと思ったけれど、実際、レヴィ=ストロースが「どんな論もその世界の壁を越えられない」と言った後にデリダが「脱構築」を論じて近代の終焉を確定的なものにしてしまったのは事実で、ポストモダン以後は全部、「~後のおまけ」になってしまっているのかもしれません。それでも歴史のある国は過去のあらゆる思想を継承したうえで「ポスト」であることができるのに、米国にはよって立つ歴史的精神的支柱がなかった、物語(ナラティブ)がなかった、ということになるのでしょう。そこに借り物の思想を持ってこようとしても、ないものの「後に」なにがあるというのか、ということを言っているようにも思えました。

 

その後は「繰り返し」です。同じことを、何度も何度も繰り返す。この本ではそれを、アメリカ思想史を研究するウィスコンシン大学マディソン校歴史学教授、ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲンの言葉を引用しています。

 

「何度となく繰り返されている問いの新しい反復」

 

自由を求め、言葉と理念によって国家を構築した「反逆者」=プロテスタントの国であるアメリカ。ダーウィニズムを越えられず、異文化受容に失敗しつづける根底には、物質に依存するほかはない、精神性のなさが根本原因なのだろうと示唆したうえで、日本はそこでしたたかに生き残るのか、それとも巻き込まれるのか、と投げかけてこの本は終わります。あたかも「日本には歴史もあり精神性が高いのに(どうした?)」という投げかけのようにも感じました。

 

先日、「シビル・ウォーアメリカ最後の日」というアレックス・ガーランドの映画を観ました。近未来のアメリカの内戦を描いた映画です。配給会社A24の映画はできるだけ観ないようにしているのですが(怖いから)、やっぱり何度か心臓に悪い場面があって、心の中で「早く帰りたい」と思いながら観た映画です。しかしそれだけ、内戦の混乱がリアルだったのだと思います。モザイク模様のように、特に何事もなく暮らしている州があると思えば、激戦区となり敵味方もなく殺し合いに明け暮れる州もあり、しかし戦っている人々には、なんらかの理念や理想、思想といったものが全く感じられない、といううすら寒い映画でした。

 

AIがあっという間にシンギュラリティを超えてしまった世界を今、私たちは生きています。もう超えてしまっていることを、薄々知っていながら、「AIを使いこなす」ことを目ざしています。米国が、とか、日本が、といった目線だけではなく、世界はサブだろうとメインだろうとカルチャーの影響力からは逃れられないのだから、今自分たちがどんなものに「倚って立って」いるのか、ということをもう少し冷静に考える必要があるのかもしれません。

 




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