
あれは夢と思うくらい、綺麗に
本題に入る前に、先ほど遭遇した、信じられない光景について、書いておきたい。今朝私はいつものように散歩に行って、帰り道に市営住宅のある坂道を上っていた。すると、いつもあったひまわりの大群が、あれ、ない、どこにもなかった。以前のブログに書いたとおり、それらは突然出現した。暇人かと、呆れられるだろうが、数えてみたら、花の数がなんと24もあった。こんなたくさんのひまわりを見るのは初めてだった。ひまわりの花は通る度にどんどんその数を増していった。全部咲ききった頃、誰かはわからないが、何処かの無法者が、無残にもひまわりの花だけ、ちょん切って持ち去って行った。その次の日は、まっすぐ毅然として立っているひまわりの木、そう、もはや茎は木と呼べるくらいしっかりと太くなっていた、を押し倒し、その見事な花弁だけを取って、その場に放置するという野蛮な行為をしていった。
首だけちょん切られたみたいになったひまわりの花を見るに忍びなく、私は反対側にある草むらに隠して置いた。その時はとっさの判断でそうしたが、今から思うと、もっと別の誰にもわからない場所にすれば、よかったと後悔した。なぜなら、その日家に帰ってよく考えたら、「あれではまずかった」と思い直したからだ。それで、次の朝、別の場所に移し替えようと思ったら、不思議なことに、もうそれはなかった。仕方なく、諦めたが、これからのあのひまわりたちの運命が気になった。
ただ、坂道を通る人たちは皆、ひまわりに気を取られている人は皆無で、立ち止まって眺める人などいなかった、私を除いては。だから、大丈夫、ヒマワリの大群は夏が過ぎ、秋になったら、枯れて自然と朽ち果てるだろう、と悠長なことを想像していた。人々の関心の外側で、そっとこのままひまわりはそこにあるはずだった。ひまわりの今後を静かに見守るはずだったが、その思いは突如として裏切られる形になった。
あんなに大量のひまわりを根元から切って、持ち去っていくのは一体どこの誰なのだろう。その痕跡はまるで、ひまわりなどなかったかのように、綺麗さっぱりとしていた。あのひまわりの大群はまさかの夢だったかのようにも思われるくらいに。白日夢、そう思ってもおかしくない現象に、私の心は揺らいでいる。だが、誰にこのことを話したら、自分の今の気持ちを分かってもらえるだろうか、いや、それは不可能というものだ。なんせ、坂道を通る人たちは自分のことに一生懸命で、ひまわりのことなど気づきもしないのだから。
人のことをどうこう言える立場ではない。コロナ禍以前の私もその体たらくだった。コロナが流行して初めて、自分の住んでいる周りの景色に関心が向いたのだから。閉そく感を解消しようと、気分転換を兼ねて、散歩をするようになった、それも人のいない早朝に。思えば、コロナが流行り出した頃は、折しも花見の季節で、信じられないことに、朝早くから近所にある見どころはカップルや家族連れで賑わっていた。皆一体どうしちゃったの?と仰天するような光景に遭遇したものだ。今では全て夢のようにも感じられる。
本当いうと、ひまわりのこれからについては、見るに忍びないとも思っていた。夏の頃は葉っぱが黄緑色をしていて、精気に溢れ、どんどん成長していたひまわりも近頃では、葉が枯れてきて、黄色と言うか、黄土色の斑点ができていた。人間で言うと、自然の摂理だから仕方ないが、年を取ってきたようで、いよいよひまわりは老年期に達していた。それでも、ひまわりの最後を見届けたかったが、その様子を見て、「邪魔くさい」と感じる人もいるだろうとは思っていた。これからどうなるだろうと秘かに杞憂もしていたが、それにしても、あんなに見事なまでに、消滅してしまったのには開いた口が塞がらなかった。
本当は書くべきことがちゃんとあったのに、ひまわりのことに感情移入し過ぎて書けなかった。また次回に書くことにしよう。
mikonacolon