
外を歩くのは相当なダメージが
整形外科の先生に、「このままでは、最悪の場合人工関節になりますよ」と脅かされて、私は震え上がった。この重大局面を乗り越えねばと無い知恵を絞って考えた。先生は口を酸っぱくして、「安静」のフレーズを繰り返すが、果たして具体的にはどうすればいいのだろう。安静と一口に言っても、まず浮かぶのは病院でベッドに寝ていることだが、さすがに家では無理というものだ。それに、実際それができたとしても、いざという時に歩けなくなってしまう。
なので、今の私に必要なのは、足に負荷がかからず、適度に動くことだ。だが、その匙加減が難しい。そもそも家にいる以上、これくらいはいいだろうと思って動く。例えば、掃除はパスしても、台所の仕事は自分の分くらいはしなければならない。正直お手伝いさんが欲しいくらいだが、それくらいはやらないと体力がなくなってしまうのではないかと不安になる。できるだけ動かないようにしているが、やはり少しくらいは動いた方が身体のためにはいいことは明かだ。それに体の具合が悪いわけでもないし、起きていられないわけでもないのだから、ずうっと横になってはいられない。かと言って、ずうっと座りっぱなしだと、腰が痛くなるのではと不安に駆られる。だが、歩くと足が痛いので、歩きたくはない。いや、本当のところは動かなくても足は十分痛い。
以前にも書いたが、足の痛みを真っ向から受け止めていては敗北は必至なので、何かで気をそらして、戦わないのが一番いい。私の場合は、一番の特効薬は今こうして書いているブログと言えるだろう。時間を決めて、私の場合は1時間程度だが、その間だけは痛みから解放される。韓国ドラマや中国の時代劇でもダメで、ただ何かを見ているだけでは痛みは消えてくれない。もちろん、歯の痛みからだけは何をしても解放されない。今の私の痛みは、痛みのことを考えれば考えるほど巨大化し、私を絶望の底に突き落とす。だが、諦めて知らんぷりをしていれば、ほどほどに手ごごろを加えてくれるものらしい。
それはさておき、今一度、「安静」という意味を考えてみると、外を歩くことは一番のダメージを負うことだと痛感する。コロナ禍後に、「家の中で結構歩いていたので安心していたら、目から鱗でした」という読者からの投稿が新聞に載った。何が言いたいかというと、久しぶりに外を歩いてみたら、いつものように足が動かなくて往生したということ。その時の私は、まさに他人事で、「ふ~ん。そうなのか」と一瞬思ったものの、すぐに忘れた。こんなことを例に挙げるのは、今の私がつくづく実感していることだからだ。今の私も家の中では何とか歩けているが、同じことを外でもできるかというと、これが情けないことに、全くできない。上手く足が動かない。動けるはずの右足でさえ、言うことを聞かず前に進めない。右足で勢いをつけようとするが、左足が付いて行かない。まさに歩き始めたばかりの赤ん坊のごとく”よちよち歩き”である。
家から歩いて10分の整形外科まで行くのに、今の私の足では30分かかる。途中で足の痛みに耐えかねて、立ち止まり、宙を仰ぐこともあるからだ。それでも病院に行くという目標と言うか、ミッションがあるから耐えられる。先週まで朝7時に順番を取りに行き、また診察を受けに戻るという苦行を繰り返していた。家と病院を2往復していたわけだが、さすがにいくら何でもこれは足には負荷がかかりすぎると思い直した。それで、昨日は病院で順番を待つことを覚悟し、一往復で済ませることにした。結局先生の診察まで2時間以上待ったが、外を歩いたのは片道30分だけで、歩く時間は以前の半分以上減った。
すると、家での過ごし方はたいして変わらないのに、関節に溜まった水の量がかなり減っていて、先生も驚いていた。「何かしたのですか。本当に安静にされていたのですね」と褒められる。ただ、外を歩く時間を半分に減らしただけなのに。これで、やっと先生の言う「安静」という言葉の意味がわかった気がした。
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