
目の前で人が転んだらどうする
昨日、いつものように整形外科に行こうと道を歩いていたら、少し先の路地から出てきた人が、突然転ぶのが見えた。その人は杖を突いている高齢者と思われる人で、転んだまま立ちあがれないようだ。さて,どうしよう、このまま進めば、その人と向き合うことになりそうだ。当然、声をかけてどんな状態か尋ねるのが人というものではないか。だが、その時の私に気持ちときたら、「これから病院に行かなければならないのに、すこ面倒だなあ」という何とも憤懣やるかたないものだった。それでも、近づいて行くと、私のそんな狡い思いを見透かしてかのように、先客が現れ、「大丈夫ですか。起き上がれますか」とその人を起き上がらせようとしていた。さすがに私も何かできないかと考えたが、我が身を振り返れば、左足を骨折して、歩くだけでもやっとだ。到底人の役には立たないと諦めて、勝手に「あの人がいるから大丈夫」と自分の都合のいいように解釈した。
実を言うと、以前に杖を突いている高齢者が転んだ場に偶然居合わせたことがあった。だが、自分一人ではどうにもできなくて、通りすがりの人に助けを求めたことがあった。いくら小柄なお年寄りとは言っても、座り込んだまま動けない人を立ちあがらせるのは口で言うより簡単ではなかった。その時ほど、自分の無力さを痛感したことはない。助けを求めた人は、高齢者の「自分で出来るからいいです」という言葉を意に介せず半ば強引に立ちあがらせてしまった。私は心の中で拍手喝采した。と同時に自分がどうしようもない役立たずであることを思い知らされた。私が「慣れてますね」と褒めると、「いいえ、介護の仕事をしているのではないのですけど・・・」と謙遜していた。
先の話の続きだが、私は後ろめたさを感じながらも、何ごとのなかったように、二人のそばを通り過ぎた。こんな歩くのも精一杯な足の自分に何ができるというのか、何もできはしないという言い訳を心の中で呟きながら。今目にしている光景は忘れるしかないのではないか。いつまでも罪悪感を抱えながら生きていくのは辛すぎる。それくらい今の自分は自分だけの狭い世界に没入しているのだと気付かされた。自分の足の事しか考えられなくて、外の世界には全く無関心のどうしようもない身勝手な自分を受け入れるしかない。
足のことで、少し変化があった。いつもサポーターをしている左足が2,3日前から、痛み出した。痛みと言っても、中からではなく、外からの痛みで、静脈瘤が腫れて、触っただけでも痛い。こんなことは初めてで、どうしたことかと戸惑うが、先日の診察の時に先生に尋ねるのを躊躇した。それは、前日の夜はひどく痛んだのに、朝目覚めたら嘘のように腫れは引いて、痛みは消えていたからだ。だが今日はまた痛みが復活したようで、痛いところにサポーターで締め付けるのはいくらなんでも辛いのでやめておくことにした。
歩くこと関して言えば、以前よりは外を歩けるようになった気がする。30分歩いてやっとだった整形外科への道のりが、今ではゆっくり歩いて20分もあれば行けるようになった。もっとも歩けば痛いのは当たり前で、それでも身体が前に進むのはとても嬉しいことだ。一日のうちで、一番足が痛むのは夜で、自分の食事の支度やら歯磨きやらで忙しい。夜の静けさが一層痛みを感じやすくする。先生の言葉通り、夜は左足の負担が大きいと納得せざるを得ない。何もしていないようで、実はけっこう動いている、いや、動かざるを得ないのだ。一番嫌なのは、立ちあがるときで、動作が緩慢にならざるを得なくなり、恐ろしく時間がかかる。いつもどうすれば、左足に負担がかからないかを考えてしまうので、動けなくて固まってしまう。足が正常の時は、一体どうやっていたのだろうとなどと本気で考えてしまう自分に戸惑う毎日である。
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