今週のお題「となり街」

出来る事なら、戻りたい
知人の桐原さんはとなり町が大好きだ。わけあって、2年前に今の市営住宅に引っ越してきたのに、未だにとなり町のことが忘れられず、歩いて35分かかる馴染みのスーパーに通っている。もちろん、桐原さんの住む団地から10分ほどの距離にショッピングモールがあり、そこにチェーン店のスーパーがちゃんとあるにも関わらずである。週に一回は、歯医者の予約のついでに、となり町のスーパーに寄って買い物をする。当然、まとめ買いをするので、仕方なく、桐原さんはあまり好ましく思っていなかった大きめのリュックを背負って出かけるようになった。それまではトートバックで済んでいたのに、右肩が痛むようになったからだ。
桐原さんは昔から歩くのが大好きだったが、寄る年波には勝てないらしく、重い荷物を背負って長い距離を歩くのはきついと言う。では、歩くのをやめて、電車にしたらとアドバイスすると、電車を使っても、歩いて行くのとたいして時間は変わりないとのこと。全く有難みが感じられず、それなら歩いて行く方がましなのだ。というのも桐原さんの団地から最寄りの駅まで15分かかり、となり町まで一駅で5分間乗ったとして、待ち時間を入れても25分くらいだろう。スーパーは駅を出てすぐなので、とても便利だ。だが、よく考えてみると、歩いて行った場合と比べると、その差はたった10分で、それなら、それだけしか変わらないのなら、面倒だから、歩いて行った方がましとなるのは自然なことだ。
第3者としては、どうしてそんなにスーパーにこだわるのかというと、桐原さんに言わせると、団地の近くの店には欲しいものが置いていないと言うのだ。例えば、牛乳で、桐原さんのお気に入りは北海道の根釧牛乳で、その商品はとなり町のスーパーのオリジナル商品だった。そんじょそこらの店ではお目にかかれない、他とは一線を画した美味しい牛乳なのだと言う。桐原さんも最初は牛乳なんて、どれでも同じなどと言う無茶な判断をしそうになったこともあるが、やはり、味が全く違うのである。その牛乳が天文学的に高いとなれば、話は別だが、実際は普通の牛乳よりも2,30円高いくらいのもので、桐原さんにも十分手が届く値段だった。
それで、「あそこにしかない、あの牛乳を買いに」行くために、35分かけてえっちらおっちら老体に鞭打って歩いて行くことになった。ただ、用事はそれだけではなくて、必ず歯医者の予約とセットだったが、それがなくても、週に一回はとなり町に通うのが習慣になっている。
思えば、桐原さんはかれこれ30年以上もとなり町に住んでいた。夫と結婚した時から住み始め、何軒かアパートを住み替えて暮らしているうちに、夫が60歳になった。そうなると、今後の生活、世間でよく言われる老後のことについて真剣に考えるようになった。夫が高齢者向けの市営住宅を申し込めるぞというので、書類を貰ってきて申し込んでみた。もちろん、そんな簡単に抽選に当たるわけはないが、葉書を出さなければ、当たらないのも確かである。今住んでいる市営住宅の部屋もハナから当たるとは思っていないので、できるだけ築年数が新しい所を適当に選んでみた。よもや、まさか、当たるだなんて夢みたいなことは信じてはいないので、どんなところかなんてことは頭の隅にも浮かばなかった。もちろん、下見なんてしやしないのである。
ところが、そのまさかが、現実になって、桐原さんは市営住宅に住めるようになった。誤解しないでほしい、桐原さんはなにも特別に幸運な人などではなかった。つまり、夫婦共に、60歳以上の桐原さん夫妻は、高齢者特別優遇の枠に相当し、抽選番号を7つも貰えることになったのだ。普通はたった一つだけの番号が7つも貰えれば、「当選は容易い」と誰にだって想像できる。
それなのに、桐原さんにとって今の団地群は陸の孤島としか思えないのである。何棟もの建物が立ち並んでいるが、外ではどこにも人の姿を見つけられない。となり町に住んでいた時は家から一歩出れば、人に出会えたのに、町中での喧噪や、人の活気に溢れていたのに、今の団地にはそれがなかった。もちろん、となり町も昔と比べると、ずいぶん変わって、昔の家が取り壊されて、何軒もの家がペンシル住宅に変ってしまった。それでも、家の前を通れば、家の中から子供の元気に遊ぶ声が聞えてくる。
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