
どこが痛いか伝える難しさを痛感
「これから家に帰れるかどうか、不安なんです」。これは私が一番最初に今通っている整形外科を受診した時に看護師さんに漏らしたひとことだ。つまり、情けない話だが、私は自分の足がおぼつかなく、どうあがいても、いっこうに前に進めないことに絶望していた。右足は元気なのに、それなのに、どうしたことか左足に力が入らず、全く歩けない。何を隠そう、私はこれまで痛くても歩くことが、唯一歩ける方向に向かう術だと信じて疑わなかった。だが、そのモットーが通じなくなる時が来たようだ。つまり、骨折していたから、歩けないのは明白だった。それが分かった今ではホッとしたと同時に力が抜けてしまった。
「そんなに痛いの!?」。これは私が思わず放った一言に対する看護師さんの返答で、とても信じられないという反応だった。まあ、私の痛みを分かってもらえないのは仕方がない。なぜなら、痛みというのはあくまで個人的な問題だからで、他人にわかってもらえないのは当たり前のことなのだ。痛みを味わって初めて、他人の痛みが分かるのだと痛感する。
昨日MRIの画像を見ながら、先生から「あなたの左膝の関節の奥の骨は骨折しています」と聞かされた。先生は私が一番最初に受診した時から、骨折を疑っていて、予想通りの結果だったという。それから、「今の膝の痛みは初診の時と比べてどうですか」と尋ねる。最初が10としたら、今は幾つくらいですかと具体的な数字を尋ねてくる。だが、当の私は内心では、「ちょっと待って、膝が痛いだなんて、一言も言ったつもりはないけど」と戸惑った。それを言ったら話が進まないので、とりあえず「5くらいですかね」と答える。
最初、レントゲンを撮ったら、変形膝関節症と診断されたが、膝そのものが痛いのではなく、あくまで膝の下が痛かった。それなのに、私ときたら、痛い部分を押さえて見せるだけで、どこが痛いのか、言葉で的確に先生に伝えていなかったのだ。ただ、「足が痛い」だけでは、自分の痛みを先生にわかってもらえないことを痛感している。左膝はつけるのに、痛いのは膝ではないのに、それでも「悪い方の左膝を出して」と言われることに戸惑いながらも、素直に従うしかない。
「足の痛みは初診の時が10なら、今はいくつですか」とまた先生に聞かれて、「ほとんど変わりませんね」と答えるしかない。本音はさらに痛みがバージョンアップしたかのように感じられるのだが。関節に溜まった液をもう10日以上も抜いているのに、痛みが軽くなるわけでもなく、虚しいだけだ。先生によると、関節液を抜いて痛みが軽減する人もいるらしいが、どうやら私は例外のようだ。変形膝関節症の治療はすり切れた軟骨を補修するためにヒアルロン酸注射を打つのが一般的だが、水が溜まっていると、液を抜かなければならないので、元の木阿弥になって意味がないと言う。2~3ccのヒアルロン酸を注射するのだが、私の場合はまだその段階に至っていないのだ。
一日おきに病院に通うのはなんとも虚しい限りだ。今では整形外科の予約を取りに行き、また戻って診察を受けるのが、生きる上でのミッションのようになった。すると、ストレスなのか、私には珍しくご褒美を求めるようになった。つまり、子供の頃風邪をひいて、病院に行くと、帰りになにか自分の好きなものを買ってもらえるという”あれ”だ。今は大人になったから、当然のごとく許可を求めなくても何でも自由に買えるようになった。ある意味、不自由な足でも、スーパーをうろついて何かを買って帰るのが唯一の慰めだった。だが、その慰めさえもできなくなった。無駄に歩いて、足を酷使することを禁じられてしまったからだ。
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