自由に振る舞うその姿に仰天
フィンランド航空で帰国する際、搭乗を待っているフロアーで”あの人”を見かけた。あの人とは、いつも私が読んでいる新聞の某紙でエッセイを連載している障害者の女性のことだ。生まれつきの背骨の病気のため、日常生活では車いすを使っているが、障害者の社会での地位向上のために積極的に活動している人、そんなふうに私はあの人のことを捉えていた。もっと、障害者に優しい社会になるようにと、メディアにおいても情報発信に余念がない人だった。それでも、ときどきは「例えば、トイレに行きたいと思って、人に介助を頼みたいときに、不味いタイミングの時もあって、そんな時は情けなくなる」などと歎いていたこともあった。普通の人なら、「行きたい」と思った時に、いつでも行動できる。だが、どうしても他人の手を借りなければならない障害者の立場ではもやもやは募るばかりだが、こればかりはどうにもできないらしい。
結婚もして、子供二人を育てている人で、新聞の写真で見る限り、目鼻立ちの整った可愛い顔をされている。可愛いという表現が適当でないなら、美人により近いと言った方がいいかもしれない。あの人に会うまではそんなイメージを抱いていた。障害者でありながら、こんな表現は偏見かもしれないが、外国にも行かれているようなので、あの人には障害なんて関係ないのかもしれないとも思っていた。
さて、あの日、私はヘルシンキのヴァンター空港で帰国便のゲートを目指して、空港内を移動していた。すると、目の前に車いすを自分で押している小柄な身体の”あの人”を見かけた。あの人は誰かはわからないが、一人の女の人と笑いながら握手をしていた。その時、私はてっきりその人が旅の友なのだと思いこんだ。突然、いつも記事を読んで、知り合いのように感じているご当人に出会った私は、呆然としてただ眺めることしかできない。こんな時、芸能人にでもするように、駆け寄ってサインを貰うだなんてできるはずもない。それとも、「いつも、新聞のエッセイを読んでいます」とエールでも送った方が喜ばれるのだろうか。内心あれこれ思いながら、結局は何事もなかったかのように通り過ぎただけだった。
早めにゲートのあるフロアーに行ったら、長椅子にはまだ余裕があったので、端っこの方に座って待っていた。すると、信じられないことに、あの人が私の方に近寄って来て、長椅子に乗ろうとした。私がとっさに席を立ち上がろうとすると、あの人は「いいの、いいの、大丈夫」と意に介さない。長椅子の空いているスペースにうつぶせに寝転んで、スマホをいじっている。まるで、自分の家のソファにでもいるような感覚で、リラックスしているように見えた。長椅子には端っこに私が座っていて、その隣にはあの人が身体を横たえている構図が出来上がっていた。私のすぐ横にはあの人の頭があるが、視線は常にスマホにあるので、私と目が合うことはない。こういうシチュエーションに慣れていない私は、なんだか居心地が悪いことこの上ない。これなら、まだ隣に人が座っていた方がどんなに落ち着くだろうかと感じないわけにはいかない。
だが、当のあの人はそんな事はお構いなしだ。あの人の身体が普通の人よりも小柄で、長椅子に寝転んだとしても、たいして場所は取らないことは十分わかっている。それを承知の上であんな格好をしているのかもしれないが、普通の感覚で言えば、強心臓だと言えるだろう。普通の人である私の方が恐縮して、逆に気を使ってしまう。そのうち、居たたまれなくなった私は席を立ち、別の場所に移って、正直ほっとした。あの人のことをどうこう言う気は毛頭ないが、あまりの自由な振る舞いに仰天せざるを得なかったことだけは確かだ。さらに、驚いたことは、あの人は介助者も無しに、たった一人で旅行していたということだ。あの人の行動は完全に私の常識を覆した。
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