
コンパクトな暮らしのすすめ
朝日新聞に載っていた書評を読んでいたら、『ゴミとくらしの社会学』という本に出会った。それを書いていたのは、あのアフロの髪形で有名になった元新聞記者の稲垣えみ子さんだった。いきなりの「私はおそらく日本有数のごみを出さない人だ。燃えるごみを出すのは2か月に一度」という文面を見た瞬間、たちまち惹きつけられた。もちろん過去に本屋で稲垣さんの著書を手に取ってパラパラやったことはあるが、本気で真面目に読みたいと思ったのは今回が初めてだった。本屋での立読みはいいとこどりで、自分で勝手に読んだ気になって、こんなものかと納得していた。要するに、稲垣さんのことを分かったつもりになっていただけで、本当のところは何にもわかってはいなかったのだ。
稲垣さんが新聞社を辞めて、ワンルームに移り住み、究極のエコ生活を実践していることは知ってはいたが、その中身については詳しく知ろうともしなかった。稲垣さんの生活に対して興味が再燃したのをこれ幸いと、その中身をじっくりと見極めようと思ったのだ。現在の私は、本を読みたい衝動に駆られると、昔のように本屋に駆け込むようなことはしなくなった。何せ、私には公立図書館サイトという強い味方が付いており、ネットで容易に検索出来て、おまけに予約もできるからだ。何たる幸せ、昔からしたら夢のような環境に私は今生きている。いつものように検索すると、稲垣さんの本は山のようにあり、その中から、『家事か地獄か』と『人生はどこでもドア』の2冊を借りて読んでいる。
冒頭にある「燃えるごみは2か月に一度」という椅子から転げ落ちるような強烈ワードの謎も、生ごみはすべて堆肥にして、家庭菜園で再利用しているのだとわかって納得した。以前読んだ記憶がある、「午前と午後にカフェで仕事」という文面から、外食しているせいで、生ごみが出ないと勘違いしていた私はなんとも浅薄で思慮がなかった。新聞社を辞めて、お金がなくなったせいで、究極の食卓にならざるを得なかった経緯も大いに共感できる。私たちは何が怖いかって、誰でも皆お金が無くなるのが死ぬのと同程度に怖くて怖くて堪らないのだ。なぜなら、お金がなくなったら、食べる物だって買えなくなるからだ。お金が無くなる事、それは、つまり死ぬことを意味する。なので、老後2千万円問題がマスコミで流れたときは、皆戦々恐々として、思わず自分の預金通帳を穴のあくほど見つめることになった。お金がすべてで、現在いくら預金残高があるかで優越感に浸り、安心できると言う構図が出来上がった。
稲垣さんはそんなにお金が無くなるのが怖いなら、それならお金をかけないシンプルライフを実践したらどうだろうかと読者に勧めているのだ。稲垣さんの普段の食卓は質素で、一汁一菜だ。冷蔵庫を持たないので、買って来たものを保存しておくわけにもいかないので、自然と食べるものが決まってくる。玄米ご飯とみそ汁、それに漬物という、考え方によってはなんとも寂しい食卓である。だが、よく考えてみると、それだけで満足できるということは、お金が無くても何ら支障がないので、お金、お金と目の色を変えなくてもやっていける。お金が無くなっても、最低のもので生活できる自信さえあれば、怖いものなどないのだ。働く意欲さえあれば、少ないお金でも平気の平左で楽しく暮していけるのではないか、欲深い私でさえもそう思えてくるから不思議だ。
やがては誰でも老後というものを経験する。私は”老後”とは、年金生活だと捉えているのだが、少ない年金でもゼロに比べれば、まだいい方で、何ら悲観する必要はないのだ。大切なのは、シンプルな生活に堪えられるように、今から少しでも必要な”筋肉”を作っておくことだと、稲垣さんから教わった気がする。
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