誰かを愛したら、本当の一人になってしまう。
(愛する人と)出逢ったのに、一人になってしまうんですか
これは、10代半ばで外見の成長が止まったまま数百年の寿命を持つ一族が、人間の子供を育てる物語。
そのあらすじだけで、誰もが結末の予想はつく。
親が子供より見た目も若く美しいままずっと長生きしてしまうのだから、当然行き着く先は悲劇でしかない。
ただ、これを見終わったとき、この結末が完全に予想できていたはずなのに、それでも涙が止まらなかったのは、愛する人との「さよなら」は耐えがたい悲しみだけれど、だとしても、その人との出会いはかけがえのないものだったと強く思ったからだ。
上に引用した台詞は、その長寿の一族の長老(といっても見た目は可憐な少女)と、主人公の会話で、冒頭この台詞を聞いたとき、彼女らのような一族でなくても、同じことが人間にも言えると思った。
誰かを愛したら、本当の一人になってしまう、と。
けれどストーリーを全て見終わると、その気持ちは変化した。変化というか、そのあとに「だとしても」が付け加えられた。確かに本当の一人、本当の孤独を知ってしまうかもしれない、だとしても、出会うために私たちは生きているのだと。
主な登場人物は、人間の子供エリアルを育てる主人公マキアと、もう一人、人間との間に子供を作るレイリア。
主に母子の愛情を軸に描かれているところもまた、私の心を抉ってきた。いや泣くわこんなもん。
ただ、母と子という「血」ではなく、どちらかといえば「他者との出会い」について重きを置いて描かれたストーリーで、それはなぜかというと必然の別れがその先にあることを視聴者が意識しているからなのだと思った。
そしてそれはなにも、マキア達のような一族だからとうわけではなく、私たちにもあてはまること。
例えば、物語の終盤は、死んだおじいちゃんおばあちゃんのことを思い出した。そして、ある人といままで交わしてきた、たくさんの言葉を思い出していた。その人が紡いでくれた言葉は、私のなかに蓄積されている。一番強く思い浮かべたのは、娘のこと。娘のこれから。
私は昔から走るのが速くて、鬼ごっこをしたら誰も私のことを捕まえられなかった。何が追いかけてきても、逃げられると思っていた。でも「現実」というやつは、どこまでも私を追ってきた。罪悪感という重荷を背負って走るのは、無理だった。更に行く先には不安も立ちはだかった。だったらどうすれば良かったんだよ、ということは山ほどある。まだ結果もでていないのに、後悔してしまう。娘に私は最善を尽くしてこられただろうか。
どんなことも、結局最後は自分一人で乗り越えないといけない。娘も、私も。最後は一人。だけど、今私の中には愛する人たちとの関わりの中で得られた強さがある。蓄積された言葉がある。それをもって、最終的に自分が“本当の一人”で生きる道を切り開く。娘にも、そういう人と、出逢ってほしい、そう強く願った作品だった。