久しぶりにまとまった休みが取れたので、その5日間を目一杯実家で過ごしてきた。もともと私の生まれた家は和歌山市の海水浴場近くにあった。夏は水着のまま家から出掛けていたほど、海がすぐ傍にあった。匂い、音、生まれてから実家を出るまでの27年間、常に私の生活の中には海の気配があった。
年老いた両親の引っ越し
今年5月、両親と妹夫婦は和歌山県内の紀の川市に引っ越した。そして今回の夏休み、その新居に初めて滞在してきた。結論から書くと、紀の川市は元いた和歌山市の沿岸部の街よりもずっと暮らしやすそうだった。まず、総合病院ではなく町医者(歯科皮膚科耳鼻科内科)が徒歩圏内にある。さらに大きなスーパーやホームセンタードラッグストアもすぐ近所にあるので、年老いた両親が安心して暮らせるのは一目瞭然だった。
たとえばこれが大きな市民病院だったりすると、待ち時間がかなり長くなるので、一言に病院があると言っても診察まで至る労力が格段に違うのである。
ここら辺のしんどさは、あまり通院する必要のない若い人にはまだ実感を伴って理解できないかもしれない。健康な若い人が秘境のような場所で楽しく暮らせるのはその「若さ」という財産があるからこそなのだと思う。
また、食料品スーパーとホームセンターが近くにあるので老いた親が車を運転する機会が減るのも有り難いと思った。
とはいえ、私はもといた実家の場所を貶したいわけではない。今も沢山の同級生たちが住み、思い出深いあの街がとても好きであることは変わりない。最後にあの家を離れる日、親から送られてきた写真を見たときは、とても感慨深かった。



私は、以前ここに書いたように、あの家が大好きだったから。
ただ、紀の川市は思っていた以上に住み良い街だった。まず道路が広い。引越し先は新しい住宅街で、国道が近いのでとにかく道が広くて運転しやすい。以前住んでいた地域は対向車が来ないように祈りながら走行する難所がいくつもあった。
そして今の家の近くには、JR和歌山線が通っているのである。こう書くと都会の人は「駅が近いのは便利ですね」と思うかもしれないが、実は私がこの場所のメリットとして和歌山線を挙げたのは、そのような理由からではない。
そもそも和歌山で暮らすにあたり、多くの人々はそれほど鉄道網を重視していない。自宅にはそれぞれ家族専用に2台以上の車があることは珍しくないし、私も独身時代は駐車場を借りて自分の車を所有していた。
南海電車と和歌山線、貴志川線しか走っていない(それもすこぶる本数が少ない)県内の鉄道路線を、そこまで頼りにしている人はかなり少ないのだ。当然実家の家族たちも各々の車で通勤や買い物に行くので、電車の駅が近かろうがそこまで関係ないのである。つまり今回家から和歌山線へのアクセスが良かったのは、たまたまそうだったからというだけに過ぎない。両親たちはこの土地を買うにあたって、もっと他に色々な条件を優先していた。ただ蓋をあけると、私の好きな和歌山線が近くにあった。
初めて一人で電車に乗った日のこと
ではなぜそこまで私がこの路線が好きなのか。それは、JR和歌山線は、祖父母の家がある御所へ向かう鉄道だったからである。父が車を運転する時以外はいつも、このJR和歌山線で御所に向かった。
皆さんは、人生で初めて一人で電車に乗って遠出をした日のことを覚えているだろうか。私の場合は小学校3年生の冬休み、和歌山駅から御所駅まで乗って行ったのがその日である。
初めての遠出とは言うものの、和歌山駅から御所駅まで乗り換えはない。一度乗ってしまえばひたすら目的地まで座っているだけなのだから、なにを大層なという気もする。都会のような複雑さは、一切無いのだから。
しかし都会の鉄道では絶対に味わえない、田舎の単線ならではの試練もあった。まず携帯もなにも無い時代、和歌山から御所まで28駅の2時間半、ずっと同じ電車に揺られているのである。そして単線が故の対向列車待ち時間が頻繁に発生するので、謎に10分以上も駅で待つこともある。子供には退屈な時間でもあった。
また、当時のディーゼル車の足下暖房は、えげつない熱さだった。このまま脚を焼かれてしまうのではないかと思うことが何度もあった。
そして忘れもしない「スイッチバック」である。当時の和歌山線は、北宇智駅でスイッチバックをしたのだ。
簡単に言えば、逆走、である。それまでも何度も親と一緒に和歌山線には乗っていたはずで、スイッチバックも経験していたはずなのだが、なにせ和歌山駅から二時間以上乗車しているので北宇智駅通過時は親といる安心感と疲れで毎回眠っていたのかもしれない。
しかしその時は違った。初めて一人で御所まで行くのだ。28駅目まで、通り過ぎないように、幼い私は神経を研ぎ澄ませて窓の外を眺めていたのだと思う。そんな時、突然列車からの眺めが逆に動き始めたのだから、私は相当焦った。めちゃくちゃ怖かった。時間にすればほんの少しの間だけなのだが。
そんな初体験を経て、小学校3年生以降の私は頻繁に一人で御所まで行くようになった。ちょうどその頃妹が生まれたので、母も一緒に電車では行けなくなったこともある。かくして、JR和歌山線の一人旅は、その後私が車の免許を取るまでの10年近く続く年間行事となった。勿論いつも一人だったわけではない。妹が大きくなると姉妹で乗車することもあったし、母がそこに加わることもあった。
そうして何度も和歌山線に乗る間に、当然道中気になる駅も出てきた。例えば高野口駅前の葛城館の荘厳さは、幼心にも大変魅力的に映った。そして母といつも、あそこに行ってみたいね、と話したりしていた。
けれど私たちは、一度も途中下車をしたことがなかった。その理由は、ツイッターにも描いた通り「大好きな人が、目的駅で待っていてくれるから」。会いたい人が、いる場所に、一刻もはやく到着したかったから。
御所駅の改札で、おじちゃんはいつも私達を待っていてくれた。そして毎回駅員さんに「この子、孫ですねん。和歌山から来たお姫さんでんねん。」と言って紹介した。私はそれがとても恥ずかしかったので正直やめてほしかったのだが、そういう時のおじいちゃんの嬉しそうな顔は今も鮮明に覚えている。祖父は、2022年12月に亡くなった。祖母も今年5月、両親の引っ越しが終わるのを待ってくれていたようなタイミングで息を引き取った。御所にはもう、私の会いたい人は、いなくなってしまった。
ある時、母が高野口駅前の葛城館は今カフェになっているらしいということを教えてくれた。高野口駅は、新居からはそう遠くない。かくして、何十年ぶりかの“途中下車”をしてみよう、ということになった。
高野口駅

ここが葛城館である。
実は内心あまりケーキの味には期待してなかった。
こういうカフェにありがちな、立地と建物にあぐらをかいたカフェだと思っていた。全然そんなことなかったです、なめてましたごめんなさい。ちゃんとバターと純正生クリームを使って作られているケーキの味でした。特にレアチーズケーキが本当においしかった。レアチーズケーキって、低脂肪ヨーグルトとか植物性油脂で誤魔化すカフェが多いんです。この建物を味わえるなら、それでもいいとさえ思っていた、でも違った。ほんまにおいしかった。
キャロットケーキもクリームチーズのフロスティングが最高だった。キャロットケーキ愛好家としては、キャロットケーキ自体を扱ってくれているお店がそもそも少ないので嬉しかった。紅茶のカップもかわいい。

江戸時代の火消し札らしい。
駅前の通り。

駅から見える高野山。
一緒に来れて良かったね、と言った。母も、御所と和歌山線が大好きなのだ。紀の川市の和歌山線沿線の風景は、和歌山というよりは奈良の風景に近い。海が近くに無いだけで、こんなにも街の印象が違うのだなと思った。ここでは、広い海の気配は完全に消えたが、そのかわり高野山という大きな山の存在を常に感じるのである。










名手駅


名手は、この5月まで妹夫婦が住んでいた場所で、最近はサンスイという喫茶店がツイッターでバズり倒してるのをよく見るようになったが、喫茶店以外も見所の多い町並みだと思う。
この街灯が好き。御所もこんなんだった。


この遊具の顔、怖かった。


この通り、好きやわ。






街灯がメロンソーダだった。

粉河駅


ここまで、途中下車をしたことがないと書いてきたわけだが、実は粉河駅だけは例外で、何度も降りたことがある。



その理由は、小学校3,4年生頃から一人で電車に乗って御所に行くようになった私を、御所のおばあちゃんが粉河駅まで車で迎えに来てくれることが何度かあったのだ。
この母方の祖母は、9人兄弟の一番末っ子で、とにかくハキハキとした性格だった。おとなしい母とは似ても似つかぬアグレッシブな女性で、自分の大事な娘が和歌山に嫁いだことを期に、50歳になって初めて運転免許を取得した。そして60歳を過ぎても車で色んな場所にドライブに行く人だった。服装はいつもとてもおしゃれで、着物も洋装もバッチリ着こなす。なんというか、9人も兄弟がいると、このぐらい自己主張をしないと生きていけないだろうな、というような勝ち気な女性だった。その9人兄弟のうち、上の二人の兄は戦地で亡くなり遺体も還ってこなかった。また、戦後の混乱で医療がまともに受けられなかった一番下の兄も、亡くなったという。
そんな祖母であるが、老いとともに、ある時期からめっきり外に出ることはなくなった。そして塞ぎ込み、寝たきりのような状態が非常に長く続くようになる。
そのうち、祖母の記憶や言動は曖昧になり始める。いつしか祖母は、実の娘を認識できなくばっていた。それでも、薄れ行く意識の中で、祖母はしばしば私の母に
「下市に帰りたい」と言った。祖母が生まれ育った、近鉄電車下市口駅前の通りをまっすぐ吉野川に向かって歩いた先に、祖母の生家は今もある。幼い頃は、吉野川で遊んだ話を私も何度も聞いた。祖母は夢と現実を行き来しながら意識はいつも下市にあった。
新居の仏壇コーナーにお盆の用意をしながら母は
「この家には、おばあちゃんは帰ってこないかもしれへん。おばあちゃんは、老人ホームで、ずっと下市に帰りたいって言ってた。最期まで。」そうぽつりと言った。そしてこう続けた
「おじいちゃんもここに帰らないかもしれない、おじいちゃんは、土佐喜の家がすきやったやろ、お母さんのこと大好きやったから。マザコンや。」そう笑った。
土佐喜というのは、JR御所駅前にある祖父の生家であるF家の屋号であり、祖父の母の実家である。祖父は自分の母親がいかに美人だったかという話を頻繁にしていた。
そういえば思い出したのだが、祖父は私や妹のことを「ほんまにべっぴんさんや」といつも褒めてくれたのだが、その時は決まって「土佐喜の家系はみな美男美女なんや。おおばあちゃん(祖父の母親)もべっぴんさんやった。」と言った。しかし、妻(私から見て祖母)や自分の娘(私の母親)を褒めているのは聞いたことがない。これは嫁からしたらなかなか嫌な旦那さんやな、と、今更気づいた。まあ照れて言わないだけなのかもしれない。
美人だと言われなかった祖母だが、とても色白で肌が綺麗だった。そのおばあちゃんと、粉河でいつも待ち合わせをしていたのだ、携帯もない時代に、時刻表だけを頼りに。

粉河駅前 とんまか通り商店街



粉河のこのあたりを歩いていたのは、だいたい19時を過ぎたあたりだった。すれ違う人の姿は無く、とても静かだった。その、ほぼ無音のような空間で、歩みを進めようとして、どこからか聞こえてくる「かちゃ、かちゃ」という音に、何故か私は胸を打たれてしまった。 相変わらず辺りは静かで、テレビの音や人間の話し声はしない。けれど、どこかから、かちゃ、という音だけが、響いていた。それは、お茶碗とお箸が流し台で洗われている時の音だった。脳裏に、どこかの台所で洗われている白い瀬戸物の茶碗と、茶色い木製の箸を想像した。
夕刻、よその家から漏れる生活音は様々で、一番多いのはやはり人間同士の話し声、またはテレビやラジオの音。もう少し早い時間帯なら、まな板の上の包丁が野菜を刻む時にトントン鳴る音。
このかちゃかちゃという音に、わずかに籠もる水の響き、これは、食事が終わった後の洗い物をする音、棚元の音だ、と思った。
そしてその音は、長らく私の生活では耳にすることが無い音だった。都会のマンションの防音はしっかりしているし、ビルトイン食洗機が当たり前ということもあるのだろう。長らくわたしはこの音を聞いていなかった。「棚元」は、祖母が食事の後に食器を洗うときに『棚元するから、そこにお皿置いといて』というような使い方をする単語で、この言葉自体もまた、すっかり記憶の彼方に忘れ去っていた。それが、この日、この場所で急に思い起こされたのだった。昼の終わりと夜の始まり、そのあわいに今自分は佇んでいるのを微かな音が体感させる。

まだまだ書きたいネタがあったのだが、ちょっと長くなりすぎたので笠田駅と打田駅は駆け足で巡っていく。
笠田駅



駅前の商店

そうだ、地震があったんだ、それで特急くろしおが運休したって。和歌山線の、どの駅に行ってもその自動音声アナウンスばっかり流れていた。

散策中に、美味しそうなめはり寿司とわらび餅を見つけて買った。散策中も、駅にも誰もいない。人目を気にせず食べることは出来たと思う。ただ、除菌シートや手拭きを持っていなかった。手を洗えないのは良くないと思い、空腹を我慢してこの写真は家で撮った。

とにかく和歌山線のこの区間はどこを切り取っても奥に高野山が見えるのが良いね。

広角で切り取ったら自民党二階が入ってくるのが和歌山って感じだね。

あかん、新居と母のこととか、書きたいことが多すぎる。スイッチバックの話とか長すぎるやろペース考えろ自分。あと、このままやと二階の写真で締めくくることになるやんか、それはいややから高野口で母が撮ってくれた私の写真貼っとく。二階よりは良いと思う。
